L'hallucination 〜アルシナシオン〜

CASE:Fourteen

第一幕


時は応永、南北に分かれた朝廷の争いも収まり、足利の世が正に平定に入る頃にその子は生まれた…
十条本家に産まれたその子には、都で活動する四條院や天野の祓い人から才能ありと認められたので
大いに期待されたのだが…その子は何と生まれながらの全盲であった。

その子は異様に色が白く、そしてある程度育つと髪の毛の色は薄く茶色で長く伸びると明らかに縮れていた。
少なくとも近縁にそのような事例はない。
本家の誰もがこの子は長く生きられないかも知れない、と思った。
自然と、名も付けられずに過ごすこととなった。

「目が見えないと言うこと」
その子には物心が付く前後には判っていた。
廊下や部屋を歩く人の足音、迷い無く歩くその音。
自分にはどうしても出来ないこと。

しかし、誰もがその子の生存や才能を諦めた訳でもなかった。

天野 稚日女(ちひめ、とこの場合は読む)当時の都を担当していた天野の祓い人である。
そして、そのパートナーであり、許嫁でもある四條院 芹生(せりょう)
特に稚日女はその子を不憫に思う心と、それでも強く育て一人でも生きて行けるようにと
優しく、そして厳しく祓いの鍛練を積ませた。
芹生もそれに引っ張られ、内心それが徒労に終わること、それによって稚日女が気を落ち込ませ
祓いに影響が出はしないだろうかと思いつつも、その子に祓いの詞と基礎知識を教えた。
文字も、彫り物の形で教えられるだけ教えた、書くなら筆でも出来るように。

その子は常に絶望の淵に居たが、それでも優しく厳しく接してくれる祓いの二人…
特に稚日女のおかげでそれでも踏みとどまれた。
だが、その稚日女の存在もまたその子にとって希望の地平にも立てない要因でもあった。

その子は稚日女が好きだった、初恋だった、そしてそれが決して実らないことも知っていた。

何故自分が存在するのか、存在が許されるのか、自問するしかなかった。



そんな…その子が十と余年を過ごした時であった。

この時代の払い人はその子くらいの年齢になると先輩の補佐などについて徐々に
独り立ちに向かうモノなのだが、そんなことはその子には無理であった。

いつも居る家、通い慣れた四條院や天野までの道のりやその家の中くらいなら
イレギュラーに備えて杖を携えるくらいでももうそれほど頼りない訳では無かったが、
やはり初めて通る道などになると気後れが先に立つようだった。

稚日女は天野、武器のエキスパートであるが、その子にも何かあるはずだと色々教えては居た、
基本真っ直ぐ飛ばせば良い…或いは音や気配で探れるのならそれに併せて追尾すれば良い弓、
そしてややリーチのある大太刀などや槍、長刀など、そして懐に入られた時のための護身からの殺人術まで、
とにかくややリーチの長い武器からのゼロ距離戦闘、というのがその子には良さそうだと
実際その子は見えないなりに良くそれを修めたのだが、矢張りいざ実戦となると…

その子は自分が不甲斐ないと己を呪うが呪ったところでどうしようもない。

政情の動きもあり、正直本家とは言え十条も裕福とは言えなくなってきた時期でもあった。
政治の中心には武家やその新派の者達が多く付き、いわゆる貴族やそれに準じるような
役人には少々辛い時代が始まった。

時は中世から近世へとゆっくり動き始めている時なのだ。
(まだまだ室町の頃は中世の価値観が色濃いが…)

正直、多少耐久力に難がある…タフネスに弱い以外はここまで生きて祓いも
体術から詞まで、良く覚えたと思う、流石に「生かしておくことは無駄」という空気は
十条本家からも消えていたし、この頃になるとそこそこコミュニケーションもとるようにはなっていた。

だが、実戦に投入が難しいとなると…やはり独自の身の振りは考えねばならない。
なので十条家としては都近辺で祓いもそれほど忙しくなく儀式的なことの方が多いような…
割と「普通の」神社にでも巫女として仕えて独り立ちをしてくれれば…という話も出ていた。
そのたびに稚日女がいる時は「もう少し」と粘られたのだが、それももうその子にとっては
心苦しくて他ならなかった、稚日女も芹生も担当する地域があり、常にその子の教育が出来る訳でもない
増して祓いの後ともなれば怪我や消耗もある。

心苦しかった、いっそ自分からさっさとその神社に行くと言い出した方がいいのでは…と思っていた。

家の近くの大通りを訓練も兼ねて一人で歩いていた時のことだ。

突然何か物凄い…力のような何かを感じたかと思うとその子ははじき飛ばされた、
彼女の目の…濁った瞳をきょろきょろとさせ、瞬きも激しく今のは何だと耳で追うが聞こえない。

「ちょっと…! なんて事を…、大丈夫!?」

その時丁度やって来た稚日女に肩を揺すられ、手を取って立ち上がらせて貰いながらも
説教なのだかなんなのだか判らない言葉を受けた。

「あの…今の…」

「あれは…無念さん、聞いたことはあるでしょ?
 古くからある街には大体ああいう何百年も逝けないまま端零を取り込み、それを活力に
 ただただ歩き回る古い霊…払い人にとっても危険なの!
 下手をしたら祓いの力が奪われてしまう、大丈夫だった!?」

うっすらと何かは感じる、音でもない何か、そうかあれが話には聞いていた無念さんか…

「…はい…触れる前に弾かれてしまったようです…」

「弾く?」

「はい」

「引き込まれるとは聞いていたけれど…弾くとはどういうことなのか…まぁいいわ、
 怪我はないね、どこに行くつもりだったの?」

「いえ、一人で外を歩いてみないことにはと思いまして…」

「そう…、いいことだけれど気をつけて、世の中は思いがけないことで一杯だから」

「有り難う御座います、では…少し先の服屋にでも…」

「ん、行ってらっしゃい」



稚日女は今日はそれでいいと思ったのか、その子が帰った時には十条家には居なかった。
すこし、寂しいかな、もう少し一緒に居たかったかな、とその子が買ってきた服の
手触りや肌触りを確かめていると、玄関の方で声がする。

「久しぶりに都へ来てみたら天皇が完全に神輿と化しておったぞ、幹弌(※1・もとひと)も
 それを半ば諦めて受け入れておる!
 言ったであろう、足利は危険じゃと、あれは長きに続いた日ノ本を塗り替えようとしておるぞ!」

自分と年はそう変わらぬ女児の声、しかしその声には威厳というか張りがある。

「はい、存じております、先ずは礼を弁えることと私どもも武士には伝えております…
 しかし今は長きに続いた朝廷政治ももはや限界…、身分も何もあった物では無い状態に
 なりつつあります、私どもの言葉が届くまでは、何卒お待ち願います」

その声や音、祖父…詰まり十条当主が土下座をして釈明をして居る…!?
何より時の天皇を諱(いみな)で呼び捨てるとは…一体何者なのだ…?

「悠長なことを言って居ったら足利は取り返しの付かんことをしでかす恐れがある、
 何とか頭を押さえつけることは敵わんか」

「朝廷側の武士もおります、何より祓い人もおります、しかし、その数や勢い…、
 足利の足下を掬うには足りますまい、そしてそんなことに祓いを使うのは…」

正論を言われ、少し勢いが弱まったその同じ年頃の声の主が唸りながら

「うむむ…確かに祓いをそんなことに使うのは以ての外じゃな…
 南と北に朝廷が別れた馬鹿馬鹿しい権力争いも終わったとみるやこの有様…
 方々で祓いの手も足りぬ、折角減らして回っても世には無念の魂がまた増えた
 しかし…日ノ本には何かこれだけは侵すべからずというもの…いわば天皇とその血筋が必要なのじゃ」

「判っております、この十条、なんとしても最悪の事態だけは避けるべく動きましょう」

「うむ…、そう言われてしまうとわらわの弾け飛びそうなこの気持ちもぶつけどころを失う」

「仰ることは我々も重々承知しております、ただ、何事も今すぐとは参らぬ事情もどうか…」

完全に意気を削がれた、そんな女児の声で

「判った…、時にいつぞやここで祓いの力を持つ子が生まれたと聞いたが、その後どうじゃ?
 もうそろそろであろ?」

自分のことだ…その子はまた少し胸を締め付けられた。

「あの子には無理です…いかにもひ弱そうな白い肌に何が悪いのか茶の髪は縮れ
 そして生まれながらに盲でありました…正直七つまで生きるかどうかすら疑っておりました…」

その子は申し訳ないという気持ちで心の中が一杯になった。
そんな時に物凄い勢いで廊下を踏む音と共に

「それがどうした! 生きておるのじゃろう?
 病に伏せっている訳でもなく祓いの鍛練は積んでおるのじゃろう!?
 それに、わらわも盲じゃぞ!」

その子に衝撃が走った、時の天皇を諱で呼び捨てたかと思えば十条家当主に
頭を下げさせるほどの同じ年頃の女児、彼女も同じだというのか!
するとその女児の足音だろう、小さいが勢いのある足音が廊下に響く。

「とにかく会わせい! おぬしらが正否を決められぬと言うならわらわが見る!」

と言いつつ、その足音は真っ直ぐ自分の方へ向かってきていた。
自分は物音一つ立てていないのに、何故判る?
そしてその足音には一切の迷いがない、襖のある位置もその開ける位置も何もかもを把握している
そういう一直線の動きだ!

その子は困った、会うべきなのか、こんないつまでのうだつの上がらない自分に会って
失望させたらその人にも二人の師にも祖父にも申し訳が立たない、どうしよう…

しかしその人が近づく度に感じる…強い…人型の強い何かが近づいてくるのが判る、
初めての出来事にその子が固まったその時、その部屋の襖は開けられた。

「おった、おぬしじゃな」

強い調子のその声、そしてその存在、目を見開きその子は驚いた。

「うむ、真っ直ぐわらわを向いておるな、わらわの存在が判るじゃろ?」

「は…はい…」

「脈ありじゃ、おぬし…折角強い祓いを持っておるのに外へ向こうとする流れと
 内へ向かう流れが釣り合ってぐるぐる回っておる、勿体ない、余りに勿体ない」

「外へ向こうとする流れと…内へ…?」

「脈ありなのは外へ向かう流れがある事じゃ、何も恐れるな、
 転ぼうと何しようとそのたびに起き上がればそれで良い、ただでは起きなければそれで良い!
 …とはいえじゃ、いきなりそんなことを言われてもおぬしにはその祓いの力のなんたるかを
 理解は出来まい、おぬしに「眼」を与えよう」

「…眼…わたくしにですか?」

「眼と言っても便宜上そう言うだけじゃ、眼というのは外の光がモノに当たり返ってきたモノを
 受け取ることでその像を結ぶモノ、そういうモノの見方ではない、
 いま…詞を教える、それを覚え唱えたらいつでもその詞を心の隅に置いておけ、
 刻みつけておくのじゃぞ、そしてこれを…むやみやたらに広めてはならぬ。
 これは祓いの力に依るモノであるから、一般に呪い(まじない)として浸透してしまうと
 詞としての効力も弱まる」

「は…はい…、」

半ば這いずるようにその子はその人の元へ向かった、そこに、その子は初めて「希望」と
呼べそうな物を感じたのだ。

その人は跪き、真っ直ぐにその子へ向かって詞を一つ語った。
その子も必死にそれに祓いを込めて丁寧に唱えた…その時…!

「!!!!!」

声にもならなかった。
球状全ての方向、角度からあらゆる情報が流れ込んでくる!

「おっと、全てを刻みつけようとするな、まずは見るべきものを見るのじゃぞ」

そう、確かに全情報なんて受け止めきれない、かえって目の回る…と言う言い方はおかしいが
体が支えきれないほどの情報…!
その子はただ真っ直ぐにその人を見た。
確かにその人の目は伏せられているし、視線のような物も一切感じない。
確かにその人も自分と同じ「目は見えない」のだ

「そしてな、ざらざらした画は見なくて良い、妙にトゲトゲする画も見なくて良い、
 その間の…そうじゃな…」

そういってその人は自分の肩に手を置き、指を自らの履き物に指して

「これが朱…まぁ大まかに「あか」で良い、少しざらつく方から言うぞよ、
 これが朱で…、少し日の光に似た色味を混ぜそうじゃな…あの庭の花の色…橙色…
 そしてもう少し日の光に近くなりあの花じゃ、黄色…、その葉は緑…言葉にする時は「あお」と言うがな、
 済んだ静かな水は空の色を良く映し光り輝いて見える、水色じゃ、
 そして空の真上、深い深い青色じゃ、あれがもっと深くなると藍色になる、
 最後に…あの花が良いな、紫じゃ、この世は大体この七色を更に細かくした物を「色」としておる」

驚きの余りただただ「その人」を見つめるその子はやっと口を開いて

「あなた様の…その祓いの色は…わたくしのは水色から青が近いと思いましたが…
 今のあなた様の言葉のどれにも当てはまりません、あなた様の祓いの色は…」

「わらわは白じゃ、覚えておけ、白と黒…おお、丁度碁盤と石があるではないか、よし、
 これが白で、これが黒じゃ、これをこの世を満たす物に例えると…
 日の光はやや黄色みがかってはおるが、おおむねそれが白く世界を照らし、
 その光が当たらぬ領域を「影・陰」「闇」というのじゃよ、
 光の世界じゃと色はたったの三つ、青と赤と緑なのじゃ、後はその強さと重なり具合で
 それは白くも黒くもなる」

その子はその言葉の全てをただただ受け止めて、自分が祓いで受け取るその全てに適用して
少しずつ受け取る情報量を増やしていっている、それが見て取れ「その人」は微笑み。

「うむ、おぬしには見所がある、丁度良い、祓ってほしいものがある」

と言いつつ、そのこの手を取りぐいぐいと外へ向かう。

「あの…この近辺で祓うべき物とは…」

と言いつつ、その子は転ぶこともなく、ややおぼつかない感じはあるが、段差も凸凹も
すべて承知した動きになっているのが誰の目から見ても明らかだった。
十条家が騒然とした。

そしてその子を連れたその人は家の前の大通りに出て指さした。

「あれじゃ、今のおぬしなら見えよう、感じよう、人の形はしておってもあれには
 体はない、迷える魂なのじゃ、あれを祓って見せよ」

祓いの眼で見るそれ…まるで人の形をした底なしの穴のようだった…
とはいえ、ぽっかり開いた穴と言うよりはその心臓辺りで一点に集中している穴…
その子は少し考え、強い意志で足早に家へ戻った、勿論その足取りはもう全てを把握していた。
呆気にとられる家人を余所に、その子は武器を携え「その人」の元へ参じた。

その子が持ってきたのは弓、そして二本の矢だった。
そして「その人」に頭を下げつつ、静かに言った。

「わたくしのやり方が正しいのか、まだわたくしには判りません、ですから
 どうか二つめの矢を射た後にはご自身の身をお守り願います」

「ふむ、判った」

そしてその力なく歩く「穴になった魂」に向かい、その子は弓を引く。
その全身に青い光が纏われ、そして矢に集中して行く、集中された光は祓いの力が無くとも見えるので
昼でも見えるその子の「力」に家人達はやはり祓いの力があったのだと思い知る。

そして射られた一本目!
その矢の光は当たる直前に矢の持ち手の方に大半が流れ、当たった瞬間に光が展開し「穴」を覆った。
着弾を確認することなくその子は既に二つ目を構えており、そして二つ目を射た!
その光は今度は鏃に集中する!

「ほ、なるほど」

「穴」にそれが当たった瞬間、そのさまよう人影その物が自らの穴に引き込まれ潰される感じに
一点に集約したかと思うと…それが大きく破裂した!
そしてその穴の魂がまき散らす洋々な光の欠片は一つ目の矢の「囲い」に当たり諸共昇華して行く…
その隙間からこちらにも破裂の勢いが凄い勢いで流れてきたが、「その人」は大きく手を横にはらうと
その勢いがその手の動きに同調し更に昇華しながら吹き飛んで消えていった。
その子は「その人」の方を向き、片膝で跪いて

「祓い、仕舞いました、しかしまだ拙い故お手数を掛けましたことをお詫びします」

「その人」は大変に満足そうににんまり微笑んで

「いや、これほどとは思わなんだ、良くやったぞ
 おぬしの教育係はおぬしがナニモノであろうと手を抜かずしっかりとおぬしを育てたようじゃな」

その子は二人の師に、特に稚日女に深く感謝の念を捧げつつ、少しまた胸が締め付けられた。
「その人」はそれを見透かしたのか見逃したのか、触れはせず

「おぬしの名は何という?」

「わたくしに名はありません、理由は先ほど当主が申した通りです。
 どこか静かな神社に引き取られたらその時にでも…と今の今まで参りました」

「そうか…ではおぬしの名は弓じゃ、その手に持った弓…見事な物であったぞよ
 いやぁ、煮えたぎりそうじゃった気分であったがこれで一気に晴れた、実に気分も良い」

そう言ってその人はきびすを返し歩き始めた。

「お待ち願います、あなた様の名をお教えください!」

弓と名付けられたその子が必死に呼び止めた。

「んむ? んー、まぁおぬしに名を聞いて名付けた上でわらわが名乗らぬのは確かに道理も通らぬな」

その人は弓へ向き直り、言った。

「わらわはフィミカ、姓も字(あざな)も氏も無いただのフィミカじゃ」

フィミカ様!
持てあまされ気味とは言え十条家に生まれ育ち、天野と四條院の教育係もいる身でその名を
知らぬはずは無い、祓いの頂点にして何があっても仕えるべきキミメと聞き及んだ人物!
なるほど時の天皇を諱で呼び捨てるし十条当主の頭だって下げさせる!

「これはとんだ失礼を…!」

片膝をついての姿勢から土下座に移行しようというその時、フィミカ様の手が弓の動作を遮り

「よい、よい、わらわが欲しいものはそんな物では無い、おぬしが強くなり
 払いの手としてその力を遺憾なく発揮してくれればそれでよいのじゃ、ではのぅ」

「あの…フィミカ様、どちらへ」

「彼方へふらり、此方へふらり、決まった道中には無いぞよ。
 あちこちでまだ猛威を振るうこともある手の付けられないような悪霊や魔を祓いに…
 手が足りぬと言うならこの日ノ本のどこへも参じて祓う、それだけの事じゃよ」

弓の心が震えた、燃えた。

「わたくし…今まで内に向いていた分、まだ今しばらく精進が必要に御座居ます、
 でも…それが過ぎ独り立ちが出来そうになったら…かならず…かならずあなた様の二番煎じでも
 同じように方々を回ります、方々の突然な災厄を祓うとお約束致します!」

フィミカ様はにやっと笑って

「それはいい、わらわも楽になる、ではいつかこの日ノ本のどこかで会うことを楽しみにしておるぞ」

そう言いながらも振り返り歩き始めながら手挨拶で去って行った。
弓はその後ろ姿が見えなくなるまで最敬礼で送った。



弓は当主に頭を下げ、後幾年かの猶予を願い出た、そしてその祓いを目の当たりにした、
眼は濁ったままで視力は無くとも「祓いで世界を見る」事を覚えた弓に対して異存は無かった。

近く宴が催され、精一杯の祝いと、弓とフィミカ様から直接授かった名を披露し、
そして今まで何者にもなれるのか判らぬ自分を育て教育してくれたことを皆に感謝した。
そこには十条家は勿論四條院も天野もいた、当然、師である二人も。

宴の主役である弓は余り酒も強くないので早々につぶれ二人の師に寝床まで運ばれ寝かされた。

そんな宴の賑やかさも少し遠い、弓に寝床の外の柱に芹生は背をもたれ、月を見上げて言った。

「試験に「無念さん」を使うなんて…相変わらず無茶なお方だ」

それに寄り添い、稚日女も

「…でもあの子はそれをやり遂げてしまった…、いつか近づきすぎた時に「弾かれてしまった」事を
 直感で気付いて祓いの矢で無理矢理その身ごと押しつぶし、反動と祓いで破裂させる…
 凄いね、中々現れないのが十条の祓いだと言うけど、確かに出てきたら強い。
 あたしは間違ってなかった」

芹生はふっと息をつき

「君も大した物だよ…俺は正直半信半疑だったからね…とはいえ、知識は力にもなる…
 そう言う意味では反対することは何も無かった訳だが…」

「有り難う、あたしに付き合ってくれて」

「当然じゃあないか、そうだろう?」

二人が見つめ合い、いい雰囲気になるがそこで芹生がまた月を見ながら呟いた。

「あの子は…弓は君のことを好いている、憧れとかそんな物では無い…もっと生々しい方向で」

目が見えず「顔色」という物を知らない弓には知る由もなかったが、
二人にはそれが良く見て取れた、増して稚日女は格闘も込みで、つまり弓とは密着をして
指導することも多かった。
平常心を保とうとしつつ耳や頬が紅潮し、それが肌の白い弓なら尚更目立ったことは特に判りやすい。

「ああ…でも…あの子はちゃんと判っているよ」

「そう、判っている、だからこそ不憫でもある」

「そうだね…天野や四條院にも「そういうの」は居るから、おかしい事とは思わないが…」

「うん…、だからな…俺はどこか一度きりならそれを見ないで置く、君も弓も女だしね…
 もし君が応えることも吝かでないと思ったその時には…一度ならそれも良い踏ん切りのような気がする」

「正気かい?」

「慕われることその物はイヤじゃないだろ?
 君はむしろ「それはそれでやりやすかった」はずだ。
 このままただ無かったことになって行くには…少し残酷な気がしてね」

残酷…そうかも知れない、恋情を利用し指導がやりやすかったことも認める、
稚日女が少し思い詰めた。

「あたしも…何だかんだあの子をどこかで軽んじていた…そうなんだろうな…我が身が呪わしい」

「でもその全てを弓は知った上で、独り立ちに向け無かった事にしようとしているよ
 …まぁ今日今すぐって話でもない、後一二年は…今度は仕事にも同行して貰わないとね、
 独り立ちが見えてきた時にまた考えよう」

「うん…」

二人は寄り添い二人で月を見上げた。

…そして障子の向こう…寝床では弓が密かに起きていて二人のやりとりを聞いていた。
ただ、切なかった。



そして時が流れ…もう弓は「何故自分などが」などと内を向くような子では無くなっていた。
一つ一つの戦いで確実に一つ一つを学び、もはや稚日女と芹生の二人の補佐だと余りにあっけなく
全てが終わってしまうようになり、そしてとうとう一人での祓いにも赴くようになっていた。

その開放的な気に応えるかのように、ややひ弱だった体は大きく育ち…線の細さに面影は残るが
五尺六寸ほど(約169cm)、背も稚日女を抜き、芹生に迫っていた。
役人などマツリゴトのそばに十条はあり、その援助などもあって現実的な金銭に困ることなく
活動をして居た四條院も天野も体躯は良い方ではあったが、遅咲きの弓もそれに迫って…
いや、胸に至っては何をどうしたら…と言うほどになっているが…

そして、武具を…特に矢を作ること、炊事も覚えた。
一人で生きるのなら必要なことだ。
数えで十七になった年のこと…いよいよその日が「明日」となった日であった。

「今日のそちらの祓いは中々大変だったようですね…稚日女様は大丈夫でしょうか」

十条本家の長い縁側を歩きながら弓が芹生に問うた。

「うん…思いの外早く強力だった、そして結構な切れ味の魔剣を持っている…
 魔の気を帯びた切り口は少々手こずるが、まぁもう後は稚日女自身の祓いの力で治るだろう
 …最後に何とか手応えだけは感じたんだが…直接昇華を見ていないのだけが気がかりだ」

「手応えはあったのですね?」

「ああ、放っておいても祓いはいずれ全身に及ぶという確かな手応えはあった」

「そうですか…」

「弓の方はどうだい? どうも聞くところによると結構無茶をして居ると聞くが…」

一見中性的な優男の芹生が少しおどけたように弓の着物から覗く肌を見て回るが綺麗な物だ。
弓は微笑んで

「戦いの時どうであろうと、今こうして何も無ければそれで良いではありませんか」

芹生は呆気にとられ

「流石フィミカ様が見初めただけはある、でもそんな無茶なところまで受け継がなくて良いのに」

「どう足掻いても一見わたくしは普通ではありません、せいぜいそれも利用させて戴きましょう」

「大した人だよ、立派になったね」

弓は立ち止まり、深々と芹生に頭を下げ

「今日まで詞の他多々ご指導有り難う御座いました、あなた方二人がわたくしを諦めなかったお陰で
 今のわたくしがあるのです」

「それは先ずは稚日女に言うべきだったね、まぁ状況が状況だ、俺が先になるのは仕方ないか」

夕飯の席はまた少し祝い事の様相であったが、また酔いつぶれては元も子もない、
その席での酒は抜きで、いつもより少し豪華に弓を送る為の席になった。
稚日女も姿を現したが、もうひと寝必要と言うことでとりあえず弓に激励と弓は感謝と労りの言葉の応酬で
まともな会話にならなかったのが周囲の笑いを誘った。

そして真夜中…時は満月、見事な物であった。
月を照らす弱いが神々しいその白い光、弓はその光と光景を愛でながら廊下を歩いていた。
このまま誰にもその時に見送られることなく都を去ろうと思っていた。
それはもうあの夜から決めていたこと。

しかしそんな一室、障子の向こうから声がする

「こんな時分にどこへ行くんだい」

稚日女だ。
弓はなんと応えたものだか少々間が開く

「…判ってるよ、聞いてたんだね、あの時のあたしと芹生の会話…それで負担になるまいと
 出て行く…実にあんたらしいよ、弓、優しい子だ」

「直ぐにでも断りを入れておくべきでした、確かにわたくしにとって貴女は初恋の人です
 でもそれだけです、それ以上をこねくり回しては誰も救われません」

「これは…懺悔合戦になるだろうね…あたしもあんたを可愛いと思っては居たんだよ。
 天野や四條院でも男も女も関係なく男が男を、女が女を好くことも珍しいことじゃあない
 あたしにも少しはその気があったのさ、だから頬を染めるあんたが可愛くってね。
 ただ、あたしには既に許嫁がいる、だからあたしが自分でこれ以上無いと思っていたんだ…
 罪なことをしたよ、そうはなりたくなかったんだけどさ、あたしは悪女さ」

「嬉しゅう御座居ます、その言葉だけでわたくしは充分に御座います」

「本当にそうかい?」

そう言われると押し殺した物がある事もにじみ出る、弓は観念した

「…辛いです、でもそれは行けないことです」

「芹生やあたしが承知していてもかい?」

「…」

「とりあえず入りなよ、せめてもう少し話そう」

確かに…そのくらいなら…弓が障子を開ける。
月光が差し込むかどうかギリギリの際で寝床から半身を起こし傷を覆っていた布を取っている
半裸の稚日女の背中が見える。

美しい、弓の心が揺らいだ。

「左脇から背中に掛けて斬られたんだ…どんな案配だい?」

「…あ…、見た目はもう大丈夫です、でも…」

弓は詞を込めその指先で傷口のあった場所をなぞりながら

「痛みが見えましたが…今はどうでしょう」

「いやぁ…ありがとう、楽になった!」

稚日女が左肩を回してみる、確かに弓の眼にももう悪化に転ずるような痛みは見えない。

「良かった、この際です、一つ伺いたいことがありました」

「うん? なんだい?」

「お二人は何故所帯を持っていないのですか…? わたくしも枷の一つではありましたでしょうが」

それに関してはいつか聞かれると思っていたのだろう、稚日女はすっぱりと

「うん、あんたのこともあるよ、それは今更かっこつけたってしょうがない
 でもそれだけじゃないんだ、所帯を持っちまったらあたしも芹生もどこも悪くない、丈夫でね
 そうなったら一年(ひととせ)もあればあたしは動けなくなるだろ、実は今都の近辺は
 祓いがギリギリでね、抜ける訳にも行かないんだ、それに、世間がどうとかは問題でない、
 あたしが健康な子を産める体は後数年は持つ、だからそれまでに…あんただけじゃなくて
 他の地域からも引っ張ってこられないかって、そういう事なのさ
 それに、男女の仲がどうの言う前にあたしは祓い人だ、その使命を放っては置けないのさ」

弓は妙に納得して

「なるほど…確かにそうですね」

「そ、迂闊にマグワレやしない」

弓がちょっと頬を赤らめた。

「ふふっ、まぁ…仕方ないんだがウブだよね弓は」

「見えなくても見つめ続けたそのお姿…貴女の音、匂い、その全てに恋をしていました。
 あの日以来…祓いの眼でその全てを重ね合わせ改めて見る稚日女様、美しゅう御座います。
 是非貴女には幸せになって貰いたい、少なくともその手助けを致しましょう」

稚日女の手が正座の弓の頭を撫でる、身をよじったその体、もう何もかもが見える。
まぶたを開こうが閉じようが関係ない、見えてしまう。

「そう気負うこともないよ、もし…そうだな、ギリギリまで粘ってダメなら
 周りには申し訳ないがこっちも所帯は持っちまうよ、大事なのは今だけじゃないからね」

弓がその稚日女の声に頷いた。

「あんたも…その月光を背負う姿…神々しくさえあるよ、神話の昔に月読は男だか女だか
 良く判らず陰も薄いんだが…あんたのような人だったのかもね」

「わたくしに神を宛がうなど勿体のう御座います、ですが、その言葉嬉しゅう御座います」

「芹生もちょっとカタく育てすぎだよ、もうちょっと砕いた言葉遣いを教えれば良かったのに」

「いえ…余り砕いた言葉はわたくしの性に合わないだけです、お気になさらず」

「どうだい、色々訳も分かったろう? お互いの荷を下ろしてすっぱり今日の思い出にするために…」

その手は誘っていた、隙を見せれば組み敷く積もりの手でもあった。

「…そうですね、芹生様のお許しもあるのですから…」

と言った時に、稚日女が弓を組み敷こうとするその手と勢いを弓が更に逆手に取った。
組み敷かれて驚く稚日女に弓は言った。

「ここまでは気付かれなかったようですね、わたくしは貴女に抱かれたいのでは無く、
 「抱きたい」のだと言うことまでは…」

この子攻めか!
そう思ったが稚日女の最後、次の瞬間にはただ快楽に身を任せるしかなかった。
上手い、やたらと…自分と組み稽古をして居る時に弓がこちらを意識していたことは知っているし
それを利用しても居た訳だが…まさか抱くことを考えて居たとは…!

人生で、一度だけ許された道ならぬ恋、精一杯それを楽しもうと弓は燃えた。


第一幕・閉
※1・流石に畏れ多いので読みはそのままに肝心要の字の方をいじりました。


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