L'hallucination 〜アルシナシオン〜

CASE:EIGHT

第二幕


明治三十年頃のとある春、二十代中頃の弥生にとって決定的な出来事が起った。

依頼が山のアイヌ村から、まぁそんな事はそこそこある。
大体が「神霊の怒りを鎮めて欲しい」的な内容で、現実には手負いのケモノが
暴れているとか、たまにホントに何か悪霊がケモノに取り憑き暴れてることもあるが…
今回はちょっと違った。

コタン(集落)に途中まで自転車で出向くものの、余りに山道山道してて雪も残っているし
流石に途中で自転車を木に括っておいて徒歩でそちらに参じた。

明治になってから、アイヌはその全てを否定された訳ではないが、
「同じ日本人として」生きる為にアイヌ名は否定はしないが戸籍には
日本名を登録すべしとお達しがあり、教育も日本式。
差別の有無は場所と人によるとしか言えない状態。

ある程度禁止された文化などもあり、そのコタンの彼らはとても抑圧されていると感じていた。
(とはいえ、それは当の日本人ですらそうなった文化だってあった訳だが…)

「政府への権利拡大の陳情手伝いって具体的に何すればいいのさ?」

「聞かぬと言うなら聞かせる為の力になって欲しい」

弥生は最大級にしけたツラになり

「まぁねぇ、こちとらも「祓い」ってモンがまこと科学と折り合わんと言う事で
 陰も陰、往来で「祓い屋で御座い」なんて言ってられないけどねぇ」

そのコタンのアイヌ達は「そうだろう!」と同情の声を掛けるのだが、弥生は言った。

「だがねぇ、今日本がアイヌモシルが何て言っていられる状況じゃあないんだよね
 お前さんがたの祖先が、シサム(和人)を跳ね返し続けて今があるならまだしも
 そうじゃあないだろ、日本だってもう二千年も前にはそんな感じで
 あっちこっちを統合して今がある、あんたらはそこに至るまでに
 他の地域より少しばかり後回しになったがばかりに文化も風習もすっかり
 変わっちまった部分もあるだろうさ」

当然、若い彼らは激怒した。
それに対し弥生も激怒した。

「おう、それじゃああんたらだけで世界中の国々と渡り合うだけのチカラを
 持って発展できるってのかい、お前らね、世の中の特に欧米の白人どもは
 基本的にあたしらをおんなじ人間だなんて思っちゃあいないよ?
 日本は…シサムはあんたらに成り代わってその「世界と渡り合う為」の
 発展とチカラを付けるって今躍起になってるんだ、あんたらがその全てを
 自分たちが出来るってんならアタシも付き合う事考えたっていいさ、
 でも、今どうよ? あんたら、今のまんまじゃあ、日本じゃなくて
 露西亜が代わりのお上になるだけだぜ?
 アイツらなんでか寒いところからぐーっと東に回ってきやって
 今凍らない港が欲しいとかでここだって狙われてるってハナシだ」

トドメに弥生は言った

「伝統結構、文化は守るといいのさ、でもね…あんたらこの北海道から
 樺太、千島列島カムチャツカに至るアイヌ及び他の少数民族と結託して
 現代兵器と渡り合う戦力を持って維持出来なきゃあ、結局
 「誰の下に成るのか」ってハナシでしかないよ、諦めるか、諦められないなら
 もう少し我が儘の通りそうなトコロに移ンな」

松前藩という藩自体を打ち破れず日本に組み込まれてしまったのだから
それはもうどうしようもないよ、ある意味伝統をかなぐり捨ててでも
発展し、結託しないとどうしようもないよ、と弥生はそう言ったのだ。

少なくとも、祓いは種族ではなく、商売…或いは生き方である、
民族のプライドとかそこまでのハナシではない。

「所詮お前には…伝わらないと言う事か」

「そうだね…、他当たってくンな、とりあえず守秘義務…あんたらから
 何依頼されたとかそう言うのは黙っておくよ、じゃあな」

イツノメを手に取り席を立ち、集落を後にすると血に逸った奴らが
投石や弓矢による攻撃(威嚇程度)をしてくる。
なんだかなぁ…弥生は思いつつも、その中の矢の一つがあからさまに殺意が込められていた。
流石にそこまで予見してなかったので思わず左手でかばうも、矢は手のひらを貫通して止まった。

感覚から毒は塗られてない、弥生がちょっと殺気を込めてコタンを睨んだ。

「欧米からは黄色い猿とまで揶揄される日本人にすら勝てないあんたらの遠吠えなんざ
 今の今まで聞くだけでも聞いて貰えて残せるだけ伝統を残せているだけでも幸せだと思いな」

弥生は左手の平を貫通した矢を敢えてそのまま踵を返し、コタンから去る。

数キロ歩いて自転車を終車してあるところまで来た時にコタンの方角から娘が一人やってきた。

「お待ちください、十条様」

「…うん?」

弥生は苦痛の表情を一瞬見せ、矢を折り、貫通したそれを抜いた。
ぼたぼたと垂れる血。

「…申し訳ありません…兄も…半分は判っているのです…でも…」

「民族の恥辱とやらまではアタシには判らないよ…でもね、それで我が儘言いたい放題
 なんて今の世の中そこまで甘くはないのさ…とはいえ、若い衆の頭としては
 引っ込み付かない面もあるんだろう…そこは判るよ…責める気はない…本当さ」

傷を治療しようと右手指先に詞を込めようとした時だった。
娘が左手を手に取りその傷を舐め始めた。

傷口を直で舐めるなど痛いはずなのに、それは安らぎになってゆく。
そして、ややも暫くそうさせておくと、手のひら・手の甲両方ともそうして
傷は完全に治った。

「…これは驚いたね、アイヌの巫女の血でも流れてるのかな」

「判りません、私はもう明治の生まれ、アイヌ出身であると言うだけで
 教育はもう日本で日本人ですから…でも、兄やコタンの人はこれを
 オヤモッテ・パルンペ(不思議な舌)と呼びます」

「アンタの名は?」

「金町(かんまち)やい、です…」

「そっちじゃない、民族の名」

「ヤイヌ・マタキ…考え事ばかりしてる妹と言うことで…」

「なるほどね、言葉遣いも振る舞いもちゃんとしてる、しかも何かチカラがあるんだな、
 そのチカラ伸ばしてやりたいが、もうアタシはここへは二度と来られないだろうしね…
 人の縁って奴は、時に残酷だよ、まったく」

年にして十程下であろう「やい」の頭を弥生は優しく撫で、自転車の縛を解こうとした時、
コタンの方角に物凄い殺気が急激に迫っていることに弥生は気付いた。
少し遅れてやいもそれに気付いたようだ

「アンタ…戦えるか?」

やいは首を横に振った。

「ここに一人にするのも不味いがといってぴったりくっ付くのはもっと不味い…
 いつでもアタシの側に来られるようにつかず離れず来てくれ!」

弥生が駆け出す、かなり早くてやいは追いつくのも大変だったが、
銃声と、怒号と悲鳴と、憎悪と悲しみの渦がコタンを中心に広がっていた。
何と戦っているのかは判らない、しかし、コタンは絶望的だろう、やいにはそれが判り
泣きたくなったが走りを止められない。

舗装されていない山道をやや上りで十五分程、広場に出るとそこは阿鼻叫喚であった。
半端に食われ千切れ飛び、生きてはいる物の既に手の施しようがないコタンの人々、
そして巨大なヒグマに…更に何かが取り憑いているようで、悪魔としか言いようのない
「災厄の塊」が今、正に弥生と対面しお互いの間合いを詰めていた。

コタンの人々も戦える人は武器を持ち戦おうとしたのだろう、装填も完了し
あとは撃つだけで地面に転がる羽目になった火縄銃や、刀や鉈、その他鈍器…

多くはそれを持つ肩ごと食われたのだろう、持ち手やその側には
人間の腕が残っている。

コタンの人達も先に逃がそうとした女子供なんかは真っ先にやられたようだ。
まるで、この「羆のカタチをした災厄」は暴力を楽しんでいるかのようだった。
武器を持たぬ女子供は一撃で殺し、武器を持ったモノは無力化させた上放置…

思った以上の相手に弥生もなかなか手を出せなかった。

「羆のカタチをした災厄」が、やいを見た、その視線にやいは固まり、弥生が口を開く。

「おい、アンタの相手はこっちだよ、あんま舐めた態度とってると…」

弥生が物凄く早い踏み込みから「羆のカタチをした災厄」に低い位置から突っ込み、
「災厄」も思った以上の弥生の早い動きに、大きく上から覆い被さるような
体勢から、両の爪と牙を弥生に向けた。

ザッ、とお互いの間合いを過ぎ、砂煙の上がる一瞬の間、
弥生の左腕から左肩に掛けてがそれほど深くはないモノの、爪の切れ込みが
着物を引き裂き、血がにじむ。

「…何人分の怨念が詰まってンだろうねェ…流石に腹や脊椎は狙わせてくれなかったか」

「羆の災厄」の左前足が肩からだらんと垂れ下がり、数カ所血を吹きだし千切れ掛かってる。
弥生の太刀筋は、熊の腕の筋の付け根の幾つかを正確に切断していた。

「…まァ、いいさ…先ず左手は貰ったよ…ってこっちも筋はイカれてねェが
 結構深けぇ傷負っちまったな…コイツを仕留めるまでには骨が折れそうだぜ…」

弥生はじりじりと「羆の災厄」と自分からやいを遠ざけるように動いていたが、
そんな弥生がやいを見ずに、やいに問うた。

「ヤイヌ・マタキ、この災厄を手早く仕留めるにゃぁこっちもそれなりの負傷を
 覚悟しなきゃァならねぇようだ…アンタ…アタシの怪我ァ、
 その不思議な舌で治してくれるかい?」

やいは恐怖で震えながらも、生きて「災厄」を仕留める気で居る弥生の強さに推され

「は…はい!」

弥生はそのやいの応えに笑顔をちらっと向け

「いい返事だ、チカラが湧くね」

「災厄」との睨み合いの中、で撃てる体勢のまま転がっていた火縄銃の側に
やって来ていた弥生は、ブーツでその持ち手部分を踏み、銃身を上向けつつ右手に取り

「勝負に出させて貰うよ!」

持ち上げる勢いで持ち手まで滑らせ、ついでに引き金も引く、
この僅かな間で弥生は狙いも「羆のカタチをした災厄」の左目を狙っていた。
発砲の発煙で一瞬その様子がやいには判らなかったが、次の瞬間には
弥生と「災厄」の位置は入れ替わっており、災厄は腰の辺りの脊椎を切られたらしい。
下半身が動かなくなってその場にへたり込む「災厄」
しかし弥生もまたすれ違いざまに爪か牙が頭を掠ったのだろう、左顔面が血にまみれた。

そして弥生はトドメと延髄を切断しようとしたのだが、そこは流石に野生生物でもある
「災厄」、殺気を感じた首筋をかばうようにのけぞり仰向けに倒れる。

弥生の舌打ち、しょうがなく太刀筋の軌道修正を施し、既に「災厄」の左半身は
ほぼ無力化してある事から左の首に刀を突き立て、奴の倒れる勢いに自分の渾身の
動きを加えて首そのものを切断する気のようだ、詞(ことば)による上乗せもして
威力も増したそれ、「災厄」が地面に転がった時には既に弥生は真上、既に勝負は
付いてはいるのだが、「災厄」もただでは死なぬとばかりに右手を弥生の左脇から
腹に掛けて一閃する。

「しょうがない…呉れてやるさ…!」

そのまま〆の力を込め弥生は全体重と勢いで「災厄」の首を切り落とす。
そしてイツノメを地面に刺し左手で腹の傷をかばい、完全にやられた左の肝臓と
半分破れた胃に流れ逆流した血を吐きながら忌々しげに血反吐を吐ききり、
詞を右手に込め「災厄」の切り落とした頭に一撃した。

その頭から複数の「浄化成仏」が昇華して行くのがやいの目にも見えた。
そして、弥生は今度は傷を堪え両手に詞を込め握りしめつつ、大の字に倒れた。

「十条様!」

やいは「脅威は去った」と悟り、弥生に近づくとどう見ても大けがの左脇の怪我が
少しずつ軽傷になって行く。

「はは…アタシも…治癒は使えるは使えるんだが…応急処置が精々って所でね…
 アタシはまだもう少し大丈夫だ、だから他に助けられる命があるか…見てきてくれ…」

弥生の言う言葉には「ウソはない」彼女が大丈夫だというなら大丈夫なのだ、
やいは、コタン中を回った。
死体・死体・死体…微かに息はあっても体の一部の泣き別れ、増して泣き別れた一部が
羆の腹の中というのではもうどうしようもない…
自分の治療も、それなりに「手間を掛ける間」がなければならない、
もう、どうしようもない。

兄ももう虫の息だった。
やいは涙を溜めながら右肩から右脇に掛けて食いちぎられたのだろう
生きてるのがおかしいほどの状態の兄の残された左手を握りただ見送るしかできなかった。

「判ってる…オマエの舌は…もう俺の傷には使えねぇ…
 …いいよ…オマエが…生き残ってくれたなら…それで…
 あン人は勝ったみてぇだな……やい…オマエは…なんとしても生き延びて…」

最後の「くれ」は口から漏れる息だけになり、兄は力尽きた。
やいの目から止め処もなく涙が溢れたが、自分にはまだやるべき使命がある。
やいは涙を拭い、弥生の元へ気丈に参じた。

「済まないね…他はもうダメかい…助けられる命があるって言うなら…
 何とか自力で治すが…野犬なんかが襲いかかってきたら面倒だな…」

やいは、この僅かな間に涙は全部流したとばかりに、ココロを噛みしめ

「コタンはもう…ダメです…私以外、もう誰も…十条様、あのカシ(小屋)まで頑張れますか」

やいは左腹に全く力が入れられない弥生を支え、弥生も刀を杖代わりにして小屋に籠もる。
そこは藁の敷き詰めた部屋であった。
窓というかスキマはあるので日は入る、やいは弥生を寝かせ、言った。

「十条様…、お召し物をお脱ぎください」

「ん…そういやそうか…いや…なんか恥ずいね…」

弥生の右手を補佐するようにやいも弥生の服を脱がす、血で真っ赤になった
白い着物の下には胸部〜腹部に掛けてサラシが巻いてあった。
それも幾分千切れて血で汚れている、再利用は出来るかどうか…。

「ああ…血は汚れを落とした状態で集め、体に戻せる…アタシの右脇にでも…」

やいはその基本美しい弥生の体に幾つものもうだいぶ薄くはなったが古い傷跡から
割と最近と思われる傷跡までうっすらとあるのが目に焼き付いた。
「この人は、修羅を生きる人なのだ」やいは思った。
それでいて、美しいとさえ思う、先程の災厄との対峙の時もその太刀筋や戦法…
自分の治癒があるからと信じて多少の無茶をするところ…愛しいとさえ思った。

基本身分が高いのだろう弥生は体も大きくしっかりしていたし、
何よりその何をどうしたらそこまで大きくなるのだという乳房…
そしてその乳房にさえ傷跡がある、やいは痛ましく思いつつ

「傷は左半身に集中しています…左を上に寝てください…」

「ああ…そうだね…、くっそ、腹の傷はまだ覚悟の上だったが背中まで
 引っ掻かれたのはちょいと誤算だった…ホンのちょいとチカラの割り振りが
 おかしくなった原因になっちまった…」

「最初のすれ違いの時ですね…それがなければもう少し軽く済みましたか?」

やいの舌というか口そのものが治癒の機能を果たすらしい、やいは時々傷口から
口を離して弥生のぼやきに付き合った。

「…どうかな…アンタの治癒を期待して結局は似たようなモンだったかも…
 済まないね…甘えちまって…」

「構いません…このチカラは…コタンの人々の本当に困る怪我や病気の時だけ
 使うように兄が管理していました…でももうそれも終りです…」

「…ヤイヌ・マタキ、アンタあたしントコ来るかい」

やいは正直そう言ってくれる事を少し望んでいた。
イキナリ一人で生きろと言われても、身売りでもしなければ無理だろうと思われた。

「ただし条件がある…いいかい?
 多分アタシぁ実家とは縁切られると思う、結構ひもじい思いもしなきゃ
 ならない日もあるかも知れない、でもそれを気にせず、アンタアタシの子として
 正々堂々と生きてくれるかい?
 教育も出来る限り受けさせる、アンタにも才能はあるようだから、少しは
 仕事の手伝いを頼めるように鍛えるかも知れない、合う合わねぇは
 アタシも独自に判断はするが…付いてきてくれるかい?」

アイヌに関しては受け取られ方や接せられ方はそれぞれだ。
弥生には偏見はないが、どうも親となるとまた少し違うらしい
やいの為に家を捨てる、そう言っているのだ、そしてそれを気にするなと。

やいは悲しくなって…でも半分嬉しくもあって泣き出してしまった。
弥生は「イテテ」と言いながらなんとか動く左手でやいを撫で

「アンタは生き延びるんだ…、アタシを利用してでも生き延びるんだ…当然の事さ」

見透かされていた、やいは声を上げて泣いた。
突然孤独になってしまった運命を呪う事もできない、
自分の生まれを不幸だなんて当然思いたくないが、それで巻き込んでしまう人が居る
命を賭けて自分を救ってくれた人がそれなのだ、やいは泣いた。

「しょうがないねェ…」

まだ傷は痛むが弥生はやいをなだめ、撫で続けた。



「おおっと…そこはちょいと…」

脇や肩の治療が終わり、仰向けになった所でやいの舌が結構際どいところに及ぶ。

「傷はここまで及んでいます…」

「まァ…確かにそうだ…アタシも女、アンタも女とは言え…なんかちょいと
 妙な気を起こしそうになる図だね…」

やいは黙って下腹部に及んだ傷を舐め治療をしながら

「…今は我慢してください」

と言ったきりやいは治療に集中した。
今は、って言った? この子……弥生はちょっと色々考えが巡りそうになって
とにかく服の血抜きと、ある程度の衣類の修復をした。



日も陰って来た昼下がりから夕刻に掛けて…
弥生の治療が終わった…とはいえ、矢張りそれは傷跡の残る溶接のような痕が残った、
弥生はご機嫌でスミス女学校で習った賛美歌なんかを何となく軽く歌いながら
(弥生にとっての神は何か、キリスト教に於ける神の存在とは、などとは考えない)
服を着て行くが、サラシは思うところがあってそのままにして持って行くようだ。
美しい体に、無残な傷跡…それも含め、夕陽に透けるその肌をやいは改めて美しいと思った。

弥生は神道(国家神道的には異端のようだが)の巫女でありながら小屋を出、
コタンの惨状に弥生が捧げるは現在賛美歌405番とも言われる「神ともにいまして」
これを変形させて歌っていた。

神ともにいまして 行く道を守り
天(あめ)の御糧(みかて)もて 力を与えませ

荒れ野を行くときも 嵐吹くときも
行く手を示して 絶えず導きませ
また会う日まで また会う日まで
神の守り 汝(な)が身を離れざれ

御門(みかど)に入る日まで 慈(いつく)しみ広き
御翼の蔭(かげ)に 絶えず育(はぐく)みませ
また会う日まで また会う日まで
神の守り 汝(な)が身を離れざれ
また会う日まで また会う日まで
神の守り 汝(な)が身を離れざれ

全てが大きな自然のサイクルの中、と言う意味で弥生の心にも響きやすかったのだろう
神道でも、仏教でも、アイヌの信仰でもなく敢えて黄色人種として驚異に感じる
白人の文化でそれを贈った。
そうでありつつ、一人一人の遺体に対し、祓いも行う、普通余程でない限り
放っておいても数年で霊は自発昇華成仏するのだが、今回は場合が場合だ。
弥生は賛美歌を歌いつつもその概念の中に詞を潜ませていて、右手や左手で
無残に殺されて行った人々の無念の魂を祓っていった。

なかなか歌が上手かったのだが、少しコブシが利いてしまうのは矢張り日本人の血か。

そして、弥生は一通り祓いを終えると、やいに問うた。

「大八車ァ、あるかい?」

「はい」

やいがよいしょと弥生のトコロに持ってくる間に弥生は詞を自らの体に行き渡らせ、
もう一度詞を今度は大八車に染み渡らせ、そして

「うォら、よッッこいせェッッッっとォ !!!」

物凄い力を発揮して「災厄になっていた羆の死体」を大八車に積み、車を引き始めた。
多分、弥生が凄い力を発揮するのも、羆の重さに大八車が平気で動いているのも
「詞」の効果なんだろう事はやいにも判るが、それにしたって凄い…

手伝いたいが、とってもじゃあないが自分などではなんのチカラにもなれない。
と言う時に弥生が

「アンタに頼みたい事がある…アタシの自転車…頼むわ…札幌まで…
 ま…ちょっと休憩挟みながら明日朝には着けるでしょ…ちょっと踏ん張り時だよ…」

弥生の自転車のあるところまで戻って先ずは山を下り豊平川沿いに出なければ…



山ン中で寝るには値しないが、流石に小休止を挟みつつ翌早朝、札幌市街区郊外と言って
いいくらいの場所には着いた。
会うマタギ・農民・屯田兵に魂消られ、何とか挨拶だけはしていたが、
中島遊園地(現:中島公園)の辺りまで来たら疲労困憊も限度に近く、
南の領域に入ってその異様な光景は推して図る事しかできず、
住民は誰も詳細は聞けなかったが、弥生の自転車を運ぶアイヌの少女
(年の頃は満で十五・六)、そしてその服に残る血や、弥生の着物のまだ幾分裂けたままで
血もにじみ素肌の見えるその有様に事の悲惨さを慮るしかなかった。

北海道庁内に当時は警察署もあり、弥生とやいは門番に子安新に連絡を請うと告げて
門の前にへたり込んだ。

「ああ…何日かは筋肉痛だよ…全く…」

部下数名と共にやって来た子安新はその有様に仰天しつつ

「こらまた…えらくでらい(凄く大きい)熊ですな…」

弥生は肩で息をしつつ、ちらとやいを見て子安新に残酷な事実を告げた。

「本願寺から虻田(現在の洞爺湖町)行きの道路を…ああ、地図あるかな…
 この辺りから山ン入って、おら、この辺りに沼があってさ…そう、この辺りだ
 「金町(かんまち)」を割り振られたアイヌコタンが一つ無くなったよ」

弥生は続けて

「敢えて言わせて貰うが、アイヌの聖地にシサムが入り込んだのが悪いのか
 それともどんな目的かも計らず和人だからとアイヌが殺したのかまでは判らねぇ
 もう四・五代前の話さ、とにかく和人…シサムが結構な念を残して時代もバラバラ
 所属もバラバラの奴らが集まり、でっかく膨れあがったコイツに…
 (弥生は羆をバシバシ叩いて)取り憑いてコタンを襲った…」

「因果が複雑で今となっては…と言う感じのようですな…ところで十条さん
 なぜそのようなところに…(やいを見て)自転車で行った言う事は仕事ですよね?」

弥生はフッと笑って

「今となっちゃァ判らないねぇ、たまたま出会ったこの子と話してたらコタンに迫る
 (また羆をバシバシ叩いて)コイツの気配に気付いて急行したが…既に全滅さ…
 アタシとした事が、依頼人から依頼を聞く事すら適わなかったとは落ち度だね」

弥生は半分だけ真実を話した。
政府に陳情だ、はてはクーデターめいた事を手伝えなどと言われた事など
一言も言わなかった。

子安新は複雑そうな表情(かお)で

「そうですか…しかし事件は事件です、隊を編成し現場まで向かいますよ」

「あたしらは勘弁してくれ、途中余程小金湯温泉に寄りたかったの我慢して
 コイツここまで運んできたんだ…この子にも残酷が過ぎる、
 弔いの形が整うまでは、そっとしておいてやってくれ」

「判りました…しかしまた…遠いですなぁ…」

「なに、男の健脚であらば半日強で着けるさ、こいつ…(と言って羆を三度叩く)
 解剖に回してくれ、コイツのえげつなさが胃の中に詰まってると思うぜ、
 主に男の右肩ばかり食ってるはずさ…武器を持った腕ごとね」

子安新は多分これから見るであろう惨状に心底イヤそうな表情をしつつ

「判りました…それで…」

「この子はアタシが引取る」

子安新の言話題の流れで察知した弥生は間髪入れずそう告げた。

「そうですか、とりあえずお疲れさんです、ここからはボクらの仕事ですね」

「羆の肉とかはさ、南の奴らに卸してやりなよ、結構な食料にはなるだろ…」

「人食いの羆なんて売れますかねぇ」

「そこはアンタ…上手い事さ…」

「お人が悪いですなぁw」



事件は春だったが、初夏に至るまでアイヌコタンが一つ消滅したと表には出なかった。
今となってはどちらに因果があったのか、果たしてその両方なのか判らなかったが
下手にアイヌを刺激する事も、また和人を刺激する事もまかり成らんと言う事で
箝口令が敷かれたのだ。

ただ、弥生に近しい南の住人は事情を何となく察せられたし、
弥生もスミス先生にはそれとなく引取った事情は話しておいた、そして
やいは北星女学校に通う事となる。

勿論ここに来るまで…前段直ぐ後の段階で弥生はやいを連れ実家に引取る旨を
申し出たが、親にとっては我慢できる事ではなかったらしく、勘当を言い渡された。
弥生にとっては、東京時代からどことなく「下品な」自分は持て余されていた訳だし
財閥を築き「祓いを支える側」ではなく祓う側に回ってしまった自分は
多少疎まれていた事も知っていたので、予想通りの結末だ。
大日本帝国憲法に記された権利を元に自らの財産の主張だけはした。

…と言う訳で春も盛りから初夏に掛けて…それこそ女学校のライラックも
花盛りの頃に、やいは正式に弥生の養子として北星女学校に通い出した。
弥生としては折角の民族なんだから服装なり文化なりを主張する事も善しとしていたが
当のやいが日本人になりたがった。
そしてアイヌだからと言われぬように沢山勉学にも文芸にも励み良い成績を修めた。

弥生としては複雑だったが、やいがそれを望むというのでは何ともし難い、
そして簡単な「詞」による祓いの方も教え始めていたが、才能はあるようだったが
矢張り多少方向が違うのか、暫くは「やいに向いている効果」を探す事に努めた。

勘当状態の弥生は弥生とその活動に理解の深い大通り南に居を構える…とは行かずに
(便利屋にされる恐れを弥生はヒシヒシと感じていた)
琴似川の支流と支流が合流する当たりに色々木や山菜などを植え込み鎮守の森になるよう
してからそこに南の大工達に格安で社と住まいを作って貰った。

付近の農民達にも少し農地を融通して貰って自ら耕し食う事も始めた。
何しろそれまで貯めた資産はまぁそこそこあったモノの、この新生活の下地と
やいの女学校入学への資金でそれまでの分はほぼ尽きていた。

仕事にも精力的に回った。
スミス先生の理解もあった事からやいを連れだって礼文だ利尻だ、果ては千島列島の先端
占守(シュムシュ)島にまで赴き途中にある捨子古丹(シャスコタン)島から
越渇磨(エカルマ)島での越冬失敗による全滅の事態による無念を祓うとか言う事もあったが、
実際には無念は抱えども悪霊化するにも至らず、
正直に「放っておいても大丈夫」と言いたかったがこんな海の果ての北洋の島々まで
足を運んでそれでは格好も付かぬ、仕方なく弥生は大盤振る舞いで
それらに関係ない昔の霊も含めて悪霊になりそうな、
或いはもう既になって現地の動物に融合した…先の羆のような…それらを祓っていった。

人もほぼ居ないこの祓いに果てはひと月ふた月掛けるような価値はあるのか…

報酬はと言えば鮭やラッコの皮と言った現物であり、割のあわなさを痛感した。
「祓いの分野でも何でも引き受けりゃいいってモンじゃない」
と、先ずは「実際の被害」がないと動かん旨を道庁に提示し、少なくとも
大きな戦争でもない限り千島列島はもうゴメンだ、と弥生は言った。
悪霊化してないとは言え、捨子古丹島での越冬失敗…脚気による衰弱…直接は
密閉された状態での暖房による一酸化中毒で逃げ出す事も出来ず死んでいった
霊を目の当たりに「幾ら国の為とはいえ、ここまでする必要はあるのか」と
思った事も大きかった。

露西亜がまた何で人が住むにも厳しいそんな北の果てをぐるっと回って
東アジアから日本より南進しようとしてるのだかは…やっぱり舐められているのか。
日本はこの時期日清戦争もあり、台湾を取得していてそちらにも開拓の手を
伸ばさねばならず、実質弥生は津軽から北海道、千島列島まで請け負うカタチに
なっていて、「らしい」とか「ではないか」とかいった確かに過去でそこに
悲惨な何かがあったのだとしても、後からの住人が「訳もなく怖がって」
打診してくるのを拒むようになっていた。
その代わり、陳情される内容からピンと来た物についての動きは速く、
やいを連れだって多少の守備範囲は超えて何処へも行くフットワークの軽さはあった。

やいを引取って一年ほど経った頃、やいも弥生の食事内容に合わせていた事もあり
多少後れ気味だった成長を取り戻すが如く、女子の平均を超えるほどの成長を
見せていた、見た目は細いが、弥生に連れだって何処へも行く体力は確実に
筋力の増加と共に数字上は「重い娘」というわけだ。
弥生は食べる事にだけは妥協しなかった。
内容は多少変化したとしても、しっかりと量を食って動く事を旨とし、
行く先々で食えそうな木の実などを拾い集めておく事もどん欲であった。

とはいえ、流石に誰かが積極的に管理した土地から奪う事はなく、
また、根こそぎ奪う事もしなかったが、だが多少の意地汚さは目を瞑った。

お陰で忙しさはあってなかなか札幌に落ち着けやしないが少しずつ
台所事情も懐事情も改善はされて行く。
なんと言っても弥生の祓いはその瞬間が「見て確認出来る」し、弥生は
伝えもしてない裏事情なんかもきちんと言うべきは言う事で
とりあえずホンモノの祓いとして認識はされていて、北海道の安定的な発展の礎の…
余り目立たないが一つにはなっていた。

またこう言う評判が立ってくると結構お目に掛かるのが
「霊の仕業に見せかけた生きた人間の諸行」と言う奴なのだが、弥生はしけたツラを
しつつも、乗りかかった船として事件解決まで付き合う事もしばしばだった。
各地の警察とも顔見知りが出来る。

明治三十年台前半にもなると、開拓民として北海道へ渡ってくる者は少なくなっており
屯田兵というシステムがそろそろ終焉に向かう頃である。

先史時代よりアイヌの時代、そしてジワジワと日本の活動領域として
組み込まれていった江戸時代から明治初期に掛けての「大きな無念」は大凡祓っていた。

先の千島列島でもメインはそう言う祓いで、越冬隊など近年の霊などは
「開拓という目標とその無念」と筋道がはっきりしているだけにそうそう
訳もなく暴れるような悪霊にはならず、問題が起るにしても、その土地で、
その霊を含めた何事かがその霊を悪霊に向かせなければ基本、
いかな死に方をした霊とて数年内には諦めて昇華成仏するものである、
そうならずとて、元来が冒険や探検の類で山奥に分け入ったりした上での死亡が
引き金だったりするので先の「羆」のような器になる何かと切っ掛けがなければ
こちらから探すにも当たらず…というか手探りが酷すぎてどうにもならず。

十九世紀から二十世紀にかけて、北海道の霊の質も変わろうとしてきていた。
どこか自然との繋がりの中か、「戦(いくさ)」という動乱からの祓いと言うよりは
都市型の…情念がモノを言うような、東京や京都で見たような祓いになって行っていた。



そんな春から初夏に掛けたある日、弥生は自転車の後ろにやいを載せ、
学校での事、授業の事、スミス先生との思い出なんかを語り、
やいの話を聞きながら札幌の街中を走っていた。

南二条にある菓子店でべこ餅でもと立ち寄って外に出た時、
一人の女性がこちらを向いていて、お辞儀をしてきた。

数年間が開くと思い知ったがいい大人になった神奈であった。

別に何も悪い事はしていないはずなのに、どことなく何かが気まずい感じがあるモノの
弥生は努めて笑顔で声を掛けた。

「久しぶりじゃあないか、どこに行ってたんだ?」

「ええ、家が札幌ではなく他に移っている事と…わたくしもちょっと色々ありまして
 別な地方に行く事になりました、鉄道の連絡の為札幌には寄りましたが…
 今日会えた事、嬉しく思います」

何だかすっかり余所余所しくも感じるようにもなった神奈だが、弥生は

「どこに行くんだい?」

「さぁ…向こう様のご都合如何ですね」

?を浮かべる弥生にやいは何となく察したのか、「霊会話」で

『あの…ご結婚なさると言う事だと…』

鳩が豆鉄砲食らったような表情になりつつも、そうか、そうだよな、普通そうだよな
っていうか「普通」で考えたら二十も中程など行き遅れと言われてもいい年だ…
と、そこで急に弥生の胸を何かが締め付けるような感覚に襲われる。
表情にもちょっと出てしまっただろう、神奈はそれを読み取ったかのように改めて微笑み、

「貴女は私のYouthful ardorです…女学校に咲くライラックのような人です
 貴方に会えた事、嬉しく思います…では…」

「神奈…!」

思わず呼び止めた弥生に振り向く神奈だが、掛けるべき言葉がどれもこれもどこか
空々しくなってしまう、アタシはやいにしたように神奈の話を聞いたか
自分の話だけをべらべらして自分の行きたいところにばかり連れていってなかったか
アタシは、自分に課せられた祓いの運命だけを考えてそれに半ば巻き込み掛けた
神奈の事を一度だってちゃんと考えて上げる事が出来たのか。

急激な後悔の念と共に涙がにじみかけるが、弥生はそれを意地でも堪えて
例え空々しくとも、笑顔を作りこう言うしかなかったのだ。

「幸福に、神奈、アンタに会えてアタシも良かったよ」

神奈は微笑み、札幌駅の方角へ去って行く。
弥生の心に酷い敗北感のようなモノが押し寄せてきた。


第二幕  閉


Case:Eight 登場人物その2:ヤイヌ・マタキ(やい)と火消し係警官・子安新 守八

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