L'hallucination 〜アルシナシオン〜

CASE:EIGHT

第三幕


基より四條院ほど人との繋がりに調子の流される事の少なかった十条の祓いであったが
こと、弥生に関して今まで不調と言っても軽い軽いものであったのだが、
その小さなしわ寄せが一気にやってきたような不調振りであった。

「神奈を永遠に失った」感覚、それが十代の頃ならまだ二・三日も落ち込めば
浮上せざるをえなかったのかも知れないが、弥生ももういい年である。
二十代半ば辺りという年で八歳程年下の養子が居る身分、そういう面では
大人になっていたのに、どこか神奈の存在に甘えてお転婆のままでいた自分に
突然気付かされたのである、失ったモノの余りの大きさと失うまでそれを
重大な事と気付けなかった不甲斐ない自分に後悔し、涙し、そして
そのまま人生最大の不調にまで落ち込んだのだ。

数日落ちに落ち込んで居た弥生と、甲斐甲斐しく介抱するやい。

「ああ…情けないねぇ…アタシったら…」

なるべく気丈に振る舞うも、家にいてやいの世話なんかを受けてると
ついつい泣き笑いじみた態度になってしまう。

「…ひどいポンタスン(生理)です…こんなに出血して大丈夫なんでしょうか…」

「死にゃあしないよ…多分ね…眠りにつけばこいつ(イツノメ)も居る…
 いつかは何とかなるんだろうさ…」

「…酷く弱気です…、心の毒を絞り出してしまわないと、貴女は壊れてしまいます」

「心の毒か…なァ…話はしてたよなァ、神奈の事、あの子とアンタと…
 ドコで差がついてしまったんだろう…神奈は巻き込みたくなかっただけなんだ…
 祓いの一端はあるようだが、巻き込んじゃならないってそればかり思ってた」

やいは思って居た事を正直に話した。

「それは…多分出会い方もあったんだと思います、私はもう貴女におすがりするしか
 生きる道はない孤独の身、祓いとまで行かずとも治癒でお手伝いは出来ます…
 それが判っていたから貴女は私をあの自転車の後ろに乗せたんだと思います。
 行楽の為でなく、仕事に随伴する為に、かつてあの方が乗っていた場所に…」

「…うん、そうだねぇ…」

「そして、多分神奈さんは貴女とお互いに話をしたかったというよりは…
 多分巻き込みたくないなら「そう言って欲しかった」のではないかと…
 自分の知らない貴女の姿を目の前にして、自分は信用のならない人間なのか
 貴女に限ってそんな事はないと思うけれど、でも、矢張り考えてしまう
 こんなに近いのに遠い人だと思ってしまったのだと思います」

弥生はもうリアクションも取れず打ちひしがれていた。

「…そして多分、先日の私が一緒して居たところを見た事が最後のトドメであったと
 思います、もう、自分の居場所はないと思わせてしまったのだと
 そう言う意味では、私の存在もあの方にとっては毒なのだと思います」

「いや…何もかもはアタシ一人で判った気になってた事が原因さ…
 その気になればいつだって細かい事情なんかは言えたんだ…でも…
 「野暮だ」ってそう思っちまうんだよ…言わずとも判ってくれるだろって
 勝手に期待しちまってた…ああ、アタシは飛んだひょうたくれ(馬鹿・無粋者)さ…」

やいは少し目線を落とし、考えてから

「それでも私は…そんな貴女が好きです…尊敬もしています」

ヤイヌ・マタキ(思慮深い妹)とは良く言った物だ、恐らくはちゃんと本心の枠内で
きちっと弥生にとって落とし所になる言葉を選んでそれを伝えた。
弥生はむせび泣きつつ、そのうち疲れてイツノメを抱えたまま寝てしまった。



「ああ…おやいったらまた微妙なとこ舐めてるよ…そんな事しなくても
 イツノメが調子を戻してくれるというのに」

イツノメの社の世界でも泣きはらした弥生にやっと苦笑のようなモノが戻る。
時間はもう真夜中という辺りだろう、その世界に弥生の耳から伝わる
柱時計の音が静かに時を刻んでいる。

弥生は自転車の個人輸入など西洋文明にも割に馴染んだ人物で、実家時代から
色々と実用品を買いそろえていた。
柱時計なんかもその一つで、懐中時計も持っている。
とはいえ、時計に関しては伊達の部分が強いというか、体内時計がかなり正確なので
「五分十分以内を計る」為のモノとなって居たが。

「貴女に早く良くなって欲しい、元気になって欲しいと言う事ですよ」

そう言ってイツノメは微笑んだ。

「そらいいんだが…流石に下腹の辺りでもその辺はキツイかなぁ」

「何を今更…そういうのを「カマトト振る」と仰有るんでしたっけ?」

「まァ確かに…」

弥生は苦笑した、身に覚えがあるようだ。

「あの子には、それは確かに貴女に対する負い目はあるでしょう
 でも、それ以上に貴女の大らかさに救われている事も事実でしょう、
 貴女を…「そう言う意味で」好く事もいつでも可能…貴女さえ応えるなら…」

「参ったね…一応義理たぁいえ娘なんだぜ?」

「ドコに義理を立てまするか、貴女様が立つべきを探るは結局貴女様ご自身に御座居ますよ。
 わたくしがお慕いした初代の遺言と共にこの世界と役目を果たし続けるように
 貴女にも、決めなくてはならない時があるでしょう、
 以前から、貴女は遊び以外の…どこか本気になる事を避ける傾向が御座居ました」

「…うん、まぁ…惚れた腫れたってのはどうもむず痒くてね」

「それで一人逃したのです、もうお一人にも距離を置きますか?
 女同士だから、いい年だから、義理とは言え親子なのだから…そういう風に」

「…痛い事言うなぁ」

「でもそれならそれでいいと思いますよ、おやい様はどちらでもいいと
 思っていらっしゃるようです、どちらに転ぼうと、貴女様の側でその仕事の手伝いなど
 それで過ごせる事だけにも幸せを見出しているようですから」

「全部はあたし次第か」

「わたくしとしましては、「抱いてしっかりつなぎ止めるも善し」という若干の後押しを…
 貴女様がどれほど胸を張って生きろと言われても、あの子はアイヌです、
 もう見た目から和人とは少し違う外見を持っています、
 どうせ一族も絶え一人きりになった娘と、その娘を引取る為に勘当になった女
 なのですから、肩寄せて生き死にを共にするのも生の全うというモノでしょう」

「その場合…二人とも死んだ後を考えないとな…」

「多分三代八千代様のように、愛弟子が生き残ったとしても、全てを十条家に
 お返しして八千代様の墓の前で自刃する未来しか私には見えません、
 しかもそれでお二人の魂は結果的に昇華成仏なさっているのですから
 生きる事は必ずしも救いには繋がりませんよ」

「どうせ死ぬなら共に…か…いや…あたしとしちゃァ、この広い守備範囲を継ぐ
 祓いになって欲しい気もするんだが…」

「時代が悪すぎます、おやい様にそれを望むのは余りに酷というモノですよ」

「……」

弥生は考えた、考えに考えた。

「…今は三家とも祓いの数が急激に足りなくなりつつある時期だ…
 というか西洋医学や農学工業…色んな分野で躍進を始めている…台湾も取得した、
 男には徴兵もある、祓いでも変えられない、清国との戦争の後は露西亜ともきな臭い…
 何て時期だろう、今って言うこの瞬間は」

「もしもの時は…家財の一切をなんとか十条家にお返しして時を待つしか無いのかも
 しれませんね…勿論三家以外で一般の祓いの芽を見つけ育てる事は
 やって置いて良いと思いますが…」

「よっぽど何かがない限り自発的に発する才能でもないからなァ…むつかしいぜ」

「でも今はそれより仕方ありません、さぁさぁ、お覚悟を決められてくださいな」

そう言って、イツノメは弥生を現(うつつ)に戻した。



チカラの方向性が違う事が幸いしたか、弥生の大不調は、やいには「それほど」
悪影響を及ぼさず、やいはひたすら大不調の元の一つであろう弥生の子宮のある辺りを
舐め続けていた。

「おいおい…そんなトコロまで舐め無くってもいいさ…血やら何やらでバッチイだろ…?」

やいは優しく舐めていた舌をしまい、若干目は合わせられない感じの微妙な顔上げ角度で

「これは治療です…キレイも汚いもありません…増して…貴女に元気を出して貰わないと
 私も困ります…色々な…本当に色々な面で…」

やいは言葉を選んでいた。
それは詰まり生活の面は当然としてそれ以外にもモニョモニョ…と言う事である。
ある意味判りやすいシグナルだった。

弥生は「よいしょっ」と上半身をもたげ、胡座の状態になるのと同時に
やいを抱え上げ、胡座の上に載せるカタチで向かい合わせ、抱きしめた。
ちなみに今弥生はサラシ一丁、やいは普通に着物である。
(やいは外出時のみ袴履き)

「これぁ誰にも話した事ないってか…当事者しか知らない事なんだが…
 あたし十二・三からこっち来るまでの何年か東京で祓いをしててさ…
 まぁ天野や四條院の強いのが居るから、あたしは手の回りきらない小さいのとか…
 んで結構呼ばれたのが「ありんす国(吉原の事)」でさ、湯屋だの遊郭だの
 いかにも情念がグネグネしてるところじゃあないか、
 放っておくと悪霊化しやすい場所ではあるんで、ちょくちょく酷い死に方したようなのが
 出てくると行って祓ってたんだ」

「まぁ職業は違えど働く女同士、それなりに気心も知れるってモンで
 そのうち世間話とかのついでに具合悪いのとかちょいと治したりしてて…
 んで…ああいう所の人の心ってなかなか特殊でね…女は敵であり最大の戦友
 唯一何もかも解り合える仲でもあるってわけで、女同士で乳繰り合うなんてのも
 そんな珍しい話じゃあなかった、…で、まぁ、あたしも
 仕事以外の厚意でやった治療の払いなんかはそっちで…なんて事もあってさ」

弥生は淡々と話しているが、やいにはそれが段階を踏んでいるところなのだと判る
弥生はなおも続けた。

「あたしは男の馴染み客とかじゃないから、何人かの遊女とちょっと触れ合ったんだけど
 とにかく、本気で入れあげる事だけはないように努めたのさ、
 そうだろ? そン人が好きになったからって下手したらその人より年下で
 まだ駆け出しのあたしの稼ぎで身請けなんて出来る訳ない、
 そんな事は相手だってあたしには望んじゃいなかっただろうしさ…」

「そんなこんなで…こっちに来てからはまだ町自体が情念だ何だ言う前の段階だ、
 古い荒々しい悪霊やら、内地じゃあもう十分に暴れられないからって
 こっちに渡ってくる移民にくっついてやって来る魔とかそう言うのが主で…
 あたしは何となくそれでも東京のノリでずっとやってたんだな、
 江戸弁の方が性に合うし…だが、それが行けなかった」

「アンタを引取るって決めた時には何かちょっと感じたところあったんだけどさ、
 でもやっぱりどこか本気になるというか…マジになる事を避けてたっていうか…
 正直、アンタは可愛いし…その姿も何もね、でも、アンタにはアンタの事情もある
 そう、義理の親子って事にしときゃァいいんだって、考えるのやめてたよ…」

物凄く大事なモノを今自分は抱えているのだ、というちょっと強い力で
弥生はやいを抱きしめた。

やいは、押し寄せる色んな複雑な思いからそれでもそれも本音だと言う言葉を紡いだ。

「…初めてお会いした時…左手に矢をさしたままの貴女はとても鋭かった…
 お持ちしていたその…イツノメ様のように。
 その後…「災厄」と対面する貴女は強く恐ろしく…それで居て無残な怪我と
 その血すらも美しいと思ってしまいました…
 治療の為小屋の中に居るとき、板の隙間から差す光に透ける貴女の肌、
 そして新しい傷から古い傷から…無残なその姿…とても美しいと思いました…」

やいもやや弥生を強く抱きしめつつ

「何故そう思ったのかは判りません、でも、その時確かにそう思いました。
 貴女は…頼もしく、美しく、怖く、鋭く…そしてでも大らかに私を包んでくれる…
 特別なお方です…「特別」が何を指そうとどうでもいいと貴女に合わせる
 つもりで今の今まで居ました…それでいいと…」

弥生は少し上半身を反らし、やいを少し離し、やいの髪をかき上げて言った。

「あたしはもう後悔したくない、アンタを手放したくない本心から
 アンタを抱くよ、いいね?」

自分からちょっとその気になるような事をしておいて、いざ問われるとやいは
恥ずかしくなってしまった。
しかし問答無用で弥生はやいの服を剥ぐ。

「…毛深いの気にしてるようだけど…あたしにとっちゃそれ含めてやいなのさ…
 気にするな、アンタはとっても可愛いよ、そして初めて会ったときから
 随分と育ったモンだな…ちょっと嬉しいよ」

「…弥生様…」



不調自体はそれからまだ一日半ほど続いたが、確実に上向いていた。
「存在自体が癒し」というやいと、「武器でありつつ癒し手であるイツノメ」
眠っているときはイツノメから初代との話や歴代の話、
起きているときは動ける範囲で動き、そして夜は夜で…
弥生が「様付けはお止し」と言った事もあり、慣れないながらもやいは弥生を
さん付けで呼び出していた。

どんな空気を読んだか、子安新が弥生ほぼ復調と言うときに見舞いに現れた。

「いや、大変なご様子だったようで…一応僕も奈良で暮らしてた時
 祓いの人とも知り合いでしたから「このくらいかな」という日数読んでみましたが」

弥生はフッと笑いながら

「ああ、かなり正確さ…大したモンだ…見舞いは頂くよ」

「ええどうぞ、食べてください…で、本題なんですがね」

土産を早速三等分に近く分けてやいが茶と共にそれぞれに振る舞い
(この時やいは自動的に一番小さいのを選ぶのだが、弥生はさっさとそれを
 大きめのが割り振られた自分のと取り替えてしまうのだ)
その様子を子安新は微笑ましく見守りつつ

「設置費用やらはこちらで負担しますんで、電話敷きませんか?」

「電話だって?」

「ええ、もうこっちに交換局もありますしね、仕事の依頼や、逆に
 十条さんからこちらに応援が欲しいとき…後…地方の警察とも繋がりあるようですんで
 その方が色々面倒もないかなと、手紙や電信ではどうにも小回りが利きませんしね」

「いいんだけれどさ、どっかに祓いに出るよって時はアンタに告げとけばいいのかい?」

「そうですね、少しずつ街道も鉄道も整備されてきています、今後も貴女たちは
 あちらへこちらへ飛び回るのでしょうから、行く先々の警察署…
 電話のあるトコロなどから僕の方へ進捗なんかも伺えたらええのかなと」

「そうだね…、構わないんだが、ドコに電話が通っていて番号が何番かとかは
 こっちにも一覧作って渡しておいて呉れないかい?」

「それもそうですね」

「しかし…そんな連絡網張るほど果たして繁盛するやらだ」

「まぁ…いわゆる開拓型から町型言うんでしたっけ、祓いのカタチも変わってくるでしょ」

「ふむ、アンタも見えないなりに結構深く理解してるんだね」

「なんと言っても奈良出身ですからね、今でも四條院さんの強い土地柄ですし
 ウチの奈良の実家は代々付き合いがありますんで」

「確かに四條院の本家はあすこだな、え、まさかアンタ本家と繋がりが?」

「いえ、奈良の実家があの家に代々衣装類納めてますんでね、札幌の我が家は分家も分家
 特にこれといった商売ではなく普通にお役人の下っ端ですが」

「奈良の四條院本家ったら十条の手助け要らずで唯一千年以上神職のみで
 やってる筋金入り、アンタの実家も結構なモンなんだな」

「まぁ、親が役人、僕が警察やってるんです、お察しください」

江戸から明治に掛けて士農工商が有名無実化したのはひとえに「カネの力」なのだが
子安新もそんな感じで商人から帯刀出来る身分を手に入れた分家なのだろう。
明治の始め、役人や警察は矢張り士族身分の出のモノが多かった。
明治ももうそろ後半と言った頃だが、実力主義的な部分がやっと世に浸透するには、
まだもう少し時間が必要であった。

「大したモンだ、コネのチカラも実力のうちさ」

「そう言って貰えると助かりますな、二代も遡れば商人だなんてのでは
 あんまりいい目で見られませんので」

「仕事してりゃぁあとは付いてくるだろ、それにしても、電話の件は了解したよ」

「頼ンますよ、ちょいと面倒かも知れませんが、出張から帰ったら手紙やら電報やらの
 山がお出迎えって事は少なくなると思いますんで」

弥生とやいは苦笑混じりに、弥生が代表して

「そら、助かるね、あン山の中からこれはって用事見つけるのは結構ホネだったんだ」

子安新は立ち上がりつつ

「じゃあ、もう大丈夫そうなんで昼くらいから工事入りますから、
 必要なら片付けておいてください」

「ああ」

時代は少しずつ、古い日本に新しい時代への突入を隅々にまで行き渡らせていった。



そこからまた一年ほど過ぎ、細かい仕事がメインながら、それらにやいを同行させ
やいの特性が少しずつ判っていった、彼女はとにかく戦う事よりは守る事に長けていた。
性格的にも確かにそんな向きだし、弥生は矢張りやいに後を継がせる事は
年もそんな離れてないしやめて、自分の補佐として全うするように詞を教えた。

いつの頃からか、やいは「日本語書記の手習い代わり」として弥生の担当した事件を
祓いの有無に関係なく記録しても行っていた。
とはいえ、公式な報告書としてではないので、客観的な証拠と言える物は
依頼者と払われたモノにしか判らない事なのであるが…
(一応警察でも内容には触れないが何年何月どこそこ的な記録は付けていた)

札幌の町も開拓型から町型への祓いの移行時期とは言え、まだまだ不審火を起こす魔もあり
畑仕事が一段落したら交通の便の関係からもやいを連れ立ち
南のあちこちを巡回する旨を子安新に告げ、
何かあったらそっちで探してくれと言う事がまだ多かった。
ちなみに野犬による被害、大けが、大病にも対応していたので出番は多かった。
この場合大けがや大病はやいではなく、弥生の詞による診察と治療がメインであった。

町の特に南側ではすっかり馴染みになっていたので写真屋が展示用に撮らせてくれと言うと
「格好の指定は受けない・やいも一緒」であることを条件に飲んだり気さくに応えた。



少し郊外の屯田兵や(明治も三十年代になるとほぼ戦う農民と言う感じだったが)
農民達や、マタギなども相手にしていて、方々から弥生向けにどうかと言う
御用聞きをするモノまで居た。

ある日、そんな弥生とやいをその御用聞きもやる者達がある場所に招待した。

「おいおい…あたしは財産を守る為の一時避難場所があってもいいんじゃあないのかい
 ってそう言ったんだぜ、なんだいこりゃ、薄暗いだけで空気も水も通ってる
 世帯数もそこそこありやがる、いっぱしの住み処じゃあないか」

案内した住人に曰く

「姐さん曰くの断熱した地下倉庫…最初はそうだったんですがね、
 やっぱ避難場所と冬場の一時しのぎにもいいやって話になって
 ちょっとずつ切り開きましたよ、上水は圓山の方から、下水も独自になっていて
 ちょっとやそいと火を焚いたくらいじゃ空気も悪くならねぇ
 なかなかのモンでしょ」

弥生は半ば呆れ気味とは言え感心して

「大したモンだよ、でも不健康この上ないよ、上がもっと安定したら
 ちゃんと上がってくるんだよ?」

「判ってますって…でも、なかなか雨風に影響されないってのはいいもんでしてね
 上の小さい用事アレやコレや請け負うだけでも結構食ってけるモンでさ…」

「まぁねぇ…江戸の頃ならそう言う生き方もアリだったろうが、
 何しろ明治政府は「近代司法」に沿って煩い事言ってくると思うよ?」

そこに地下民が何人か集まって来ていて

「姐さんだからこの場所とオイラ達の事話したんだ、どうか内密に願いますよ
 あの人の良さそうな警察のお方にもだ」

弥生はちょっと複雑そうな顔をしつつも

「…まぁ、承知はしたよ、だが、いつまでも続けられる生活じゃあないよ、
 それだけは忠告しておくからね」

そんな時、奧からやって来た一人が何か良く判らない独自の符丁でこちらに
連絡をしに来た、手入れか何か?

「…ああ、済みません姐さん、噂をすれば何とやら、子安新の旦那が
 姐さん探してるそうです、こちらから上へお戻りください、
 そして重ね重ね言いますが…」

「判ってるよ、あたしもやいも野暮はしないさ」

「お願いしやすよ」

指定した階段を上り、金属製の天蓋を開けるとそこは倉の中だった。

「へぇ…成る程ねぇ」

なかなかにごちゃごちゃしたその物置染みた中をやいと二人で歩き出口へ向かう際
やいが気付いた。

「あ…弥生さん…あれ…」

「うん? (良く見る)なるほど、こら良いモン見つけたね、お手柄だ」

弥生はその無造作に置かれた紙束から一枚を手に取り、やいを撫で外に出た。



倉から商家の敷地に出て、その店の正面に回り店の主人に弥生が問うた。

「最近倉で物音がするとかなかったかい?」

「ああ、ええ、ネズミか何かかなと」

「丁度いい、原因見つけたよ、ちょっと困ってた事にしてくれ」

「えっ」

「地下の雇いの事を知られたくなかったら、そういう事にしてくれ」

「あ…はい…」

しょうがない奴らだなと言う苦笑で弥生が通りに出た。

通りの向こうに子安新が見えたので、声を掛ける弥生に子安新がやって来た。

「やぁやぁ…十条さん、どこに行ってたんですか、ここ通りましたよ?」

「この店の…倉の方でちょっとね、主人は「もし気のせいだったら評判に傷が付くかも」
 って訳で内密にしてたのさ…、ところでこれだ」

弥生が子安新に差し出したのは猫の浮世絵だ。

「…これ…これがどうかしました?」

「よぉく見てみな」

おや、猫の絵が?

「おお、目を瞑った、なんですかこれ、絵に取り憑いてるんですか?」

「そうか、普通の人にはそういう風に見えるんだ、おやい、お前にはどう見える?」

「…柄が多少違うのですが…似たチャペ…猫が薄ぼんやりと絵にまとわりついています」

「うん、あたしにもそう見える、ただしこの絵の見本になった猫って訳でもない
 憑いた場所は判らないが、も少し後の時代だろ、国芳よりちょっと後だから
 まぁ明治に入ってからだ」

「ほー…そしてこれが」

「人気をはばかる夜になったら倉の中で絵から出て跳んだりはねたりしてたって訳さ。
 ただ上手い絵ってだけじゃこうはならない、無類の猫好きで知られた国芳の絵だから
 こんな事が起きたって訳さ、まぁ…このままでも問題はないんだがね、
 それとなく人目に付く場所に飾ってちょいとでも猫の食えそうなモンと水備えて
 幾らかすれば昇華成仏しちまうよ、人より犬猫のが生き死に若干疎い場合も多い
 っていうか、人間の宗教なんてこいつらには関係ないからさ
 何十年でも他愛もなくただそこに居たりはするんだよ」

「それじゃあいわゆる化け猫ってのは…」

「他に酷い死に方した同類に同情したりして融合するとか…
 あとは人の悪霊に取り込まれて利用されたりとか、そういう事だね
 この世の中どれほどの人や犬猫が居る、いちいち全部の死せる魂に祓う義務はない
 放っておいたってそのうち自然に昇華成仏するモンさ…」

「今回は夜中の倉の物音ってのがあったから特別って事ですね」

「ああ、とはいえ、特別祓いはいらない、普通に供養してやりゃ勝手に逝くよ」

「ほうほう、一件落着ですな」

「そういったわけだ、主人、そのようにしてやってくれ」

「あ…はい」

害はないとは言え、確かに猫の霊の憑いた国芳の猫の浮世絵…ちょっと
受け取る主人の手が躊躇した。
弥生はキッチリその浮世絵を渡してから

「ところで、どうしたんだい?」

子安新は、思いだしたって感じのリアクションで

「そうそう…これもひょっとしたら似た感じかも知れないんですがね
 札幌本道(多少変更はあるが概ね現在の国道36・一部5号線のルート)の
 千歳付近の…ええと地図のこの辺りなんですがね、ここに
 行き倒れの霊が居るって言うんですよ、目撃者はそれなりに居ましてね
 とはいえ、ただの噂なのか本当なのか僕じゃ判らないですんで」

「どれ」

弥生は自分の地図を懐から取りだして(ちなみにこれも毎年刷新している)
子安新の示す地図の該当箇所に裾に入れていた鉛筆で囲いを入れ、
(ちなみに明治三十四年に眞崎鉛筆は公の機関で三種採用され、それを記念し
 明治三十六年に三菱マークを商標登録した経緯で後に三菱財閥と関係はないが
 許可を取り三菱鉛筆となった、弥生の使っているのは勿論眞崎鉛筆だが
 三菱マークかどうかは年代をボカさせて戴く)

「判った、見てくるよ。 行き倒れも良くあるんだが、目撃者がそれなり
 いるってのがホントなら、放っても置けないかも知れない」

「頼みます」

「ああ、日暮れ前には戻ると思う」

弥生がやいを連れだって自転車で札幌本道を千歳方面に向かって行った。



千歳の管区に入り、漁村(いさりむら・現在も漁川はある、今の恵庭近辺)から
長都(おさつ・現在も地名は残る、現千歳市内)より千歳を目指す途中にそれはあった。
重装備とも軽装備とも言えない微妙な服装、裕福なのか貧乏なのかも素性の測れない霊。

『あー…あっついねぇ…日照りの道ってのはどうしてこう暑いかね』

着物の胸元をバタバタさせながら弥生が「行き倒れ」に霊会話で話しかけた。
勿論弥生はちょい距離移動にはそれに合わせた詞で運動能力を強化しているし
その酷使に耐えるよう自転車にも詞を行き渡らせてある、パンクなどはしない。
だからこの言葉かけは本当に様子見でしかなかった。

『…暑い? 日照り…なんの事ですか…』

『おう、アンタは寒いのかい? どんな感じだい?』

『真っ白でなんにも見えないです…寒いし何も見えないし…』

『ははぁ、地吹雪にやられたんだな、この辺じゃままある事さ、運が悪かったね
 あんたはどこから来たんだい』

『僕は東京の学生で…鶴見豊と言います…地吹雪ってなんですか』

『こっちの雪はサラッサラでね、風に吹かれて土埃の酷いのみたいに
 目の前を真っ白にしてくれるのさ、雪もオマケに降ってたらもう
 ちょいと郊外歩いただけで行き倒れられるよ、あんたみたいにね』

『そうです、まさにドコを見ても真っ白で…ああ…』

『しかしなんでまた東京の学生さんがこんな所にいるんだい
 ここを通ってたって事は札幌に用事があったのかい?』

『はい…有志で金を募り、代表して僕が農学校や開拓著しい札幌に…
 室蘭まで船で来た後…泊まりの宿であんな馬鹿さえしなければ…』

『アンタの後悔が見える、酔った勢いで客と賭けをして見事に旅費をすったって訳だ
 馬鹿だね…それでも目標を達そうと歩きで札幌を目指すも時は冬、
 北海道の冬を舐めてたって訳だね』

『勇払と言うところまでは雪も少なく我慢できる程度の寒さだったのに…』

『千歳から先は別の北海道だと思いな、室蘭なんて気候としては極楽だよ?
 土地の開墾は大変らしいがね』

『馬鹿な事をして募った金を失ったばかりでなくこんな所で死ぬなんて…』

『よし、死んだ事は受け入れたね、偉いよ。
 もう仕方ないのさ、こんな所まで来た根性は認めるよ、名は覚えた、
 ドコの学生だい、遺体を収容するまでに身ぐるみ剥がされた可能性があるが
 ソイツを恨んじゃいけねぇよ、己の馬鹿と無鉄砲を呪うんだね』

『東京高商…』

『判った、後の事は何とかあたしの方でやってみるよ、
 おやい、コイツを寒さから守れるかい?』

『あ…はい、』

少々不意を突かれたやいだが、詞は教えて貰っている、ただそれは現実の人間が
現実の寒さに耐える為のモノと教わり、霊の感じる死んだときの寒さに
使えるものなのか疑問があったのだが、やいは少し考え、知る限りの詞の範囲で
それが霊を…魂を守るモノとして作用するようにアレンジして使い、
鶴見君の霊に触れた。

『…ああ…寒さが和らぎます…有り難う御座います…
 僕の有り様も胸に刻みました…今は初夏なんですね…』

鶴見君は立ち上がり、弥生はやいに向かって微笑んで見せた。
やいは心躍らんばかりに喜んだ、咄嗟の判断での独断だったが、其れで善かったようだ

『もしなんなら地図をやるよ、自力で札幌まで来て、それで昇華成仏するんだね』

弥生が詞を使い、手持ちの地図を霊の持ち物として転化できるようにした。
鶴見君はそれを受け取り、

『貴女は…そのお力で僕をここで祓おうとはしないんですね』

『あたしの美学に反するんでね、聞き分けのいい奴は自分で成仏の切っ掛けを掴むんだ』

『そうします…有り難う御座居ました』

鶴見君は札幌本道を地図を片手に歩いて行った。

「…ま、死体が歩いているようには見えないはずだ、一般の人には
 何か淡く光る何かにしか見えないはずさ、それでいい」

やいは弥生の仕事ぶりが好きだった、弥生の美学が好きだった。
やいは少し顔を赤らめ、満足げに鶴見君を見送る弥生を見て

「…次は…この近くのお寺か、お役所でしょうか」

「そうだね、身元不明の死体…或いは運良く身分の証明出来る物込みで
 収容されたなら連絡も行っているんだろうが、確かめに行こうか」

「はい、」

弥生は、やいを自転車の後ろに乗せもう少し進んで千歳の町に向かった。
ややもあり、矢張り身元不明の無縁仏と言う事で処理されていたそれを引き取り、
札幌に持ち帰り子安新から鶴見君の学校と家族に連絡を入れるよう言付け遺骨を渡した。

ちなみに途中追い抜く形になった鶴見君の霊へ

『乗って行くかい?』

と弥生が聞くと

『いえ、僕には寒さも疲れも眠気もありません、ただ札幌に自力で行く、それだけです』

『そうかい、ま、東京に比べたら全然田舎だが、人間なんにもない湿原から
 短期間でここまで出来るんだって事を目に焼き付けるといいよ、じゃあね』

『はい』

追い抜いてから

「ま、東京も元は似たようなド田舎だったらしいけどね」

「多分そこは判っていらっしゃいますよ」

「そうだね」

割と晴れ晴れした気分で一仕事終えた弥生とやいの気分は上々だった



第三幕  閉


Case:Eight 登場人物その3:明治三十年代の彌生とおやい

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