Sorenante JoJo? Part One : Ordinary World
番外編:3「Wild Ambitions」
第二幕 開
1913年ベルリン…
帝政も末期に入ったドイツの…カイザー・ヴィルヘルム研究所にて…
この研究所に働き出してやっと正規の職員として給料を得る事が出来るようになった
一人の女性科学者が勤めていた。
その科学者がいつものように仕事として数々の実験やその準備、後片付けに奔走していた時である。
窓の外…かなり近い所に見慣れない…そして有色人種との混血と思われる女性がちらちら
見えるのが気になった。
中を探ろうと言うよりは、純粋に中でどんな事が行われているのか気になっている風でもある。
見た目の年齢は自分より幾らか若いくらいだろうか、人種は違えども、かつての自分もこんな風に
真っ当な研究に対して憧れを抱いた物だ…
科学者は、少しその女性にシンパシーを感じ、窓を開けて声を掛けた
「ねぇ、貴女…そこで何をしているの?」
警戒としてではなく、あくまで呼びかけで柔らかく、問いかけた。
「あ…貴女はリーゼ=マイトナー…Dr.rer.nat・マイトナー」
彼女はあくまで実験用具やその用途などに興味を示していたらしく、そこで働くこの科学者が
リーゼ=マイトナーだとは気付いていなかったようである。
「興味があるの?」
「ええ、色々な方の講義も…盗み聞きですが…何度か拝聴しました」
「行けない人ね、でも、そうよね、そうでもしないと…ここへ来たと言う事は…
プランク博士かしら? それとも…ハーバーとかハーンとか?」
「いえ、もう…物理に関わる全てです…わたしはこれこそが今わたしに必要な学問だと
とても…興奮しているのです」
「なら…教育は?」
彼女はかなり、諦めたような表情で
「…独学です、博士」
「…そう…、研究に身を捧げる積もりが…?」
「必要とあらば…しかしわたしにはまだ素地が足りません」
「うーん…確かに、そうね、私は恵まれていたわ、それでもここまで来るのに
30年以上かかってしまったもの…もし…良かったら、講義をしてあげるとは言えないけれど
自習する気があるなら、色々本をお貸ししてもいいのよ」
そればかり聞くと、彼女は目を輝かせた、本当に、科学の世界が好きなのだという目をしていた。
「正直…何か体系的にまとまった本が出るまでは迂闊に買えない…と思いながらずっと
過ごしてきたんです、そうしている内に知らねばならない事が山のようになっていて」
「そうね、ええ、本当はもっともっと、貴女のような知的好奇心は全ての人々に
満たされなければならないのにね、まだまだ我慢が必要な世の中だわ
…そうね…今日の研究の後、少し時間があるなら家へいらっしゃい
我が師ボルツマン、尊敬するプランク博士、一杯その研究に関わる本や論文はあるわ」
「よろしいのですか?」
「貴女を見ていたら…何だかもの凄いシンパシーを感じたの。
チャンスは残念ながらあげられない、だけど、貴女の素地を固める手助けは
してあげられるわ。
貴女…お名前は?」
「ジョフィエ…ジョット」
「チェコの方の名前ね?
でもファミリーネームはイタリアだわ」
「ご覧の通り、混血ですから」
「あ…、そうね、ごめんなさい、ジョフィエ、私の事はリーゼでいいわ
特別畏まった何も要らない、ただ、誠実でさえ居てくれればね」
彼女は恭しく礼をした、かなり洗練されている。
そう言えばドイツ語も完璧だ、軽く何気に「年下で科学の道へ歩みたがっている女性」
という気持ちで話しかけはしたものの、少しリーゼはこのジョフィエと名乗った女性に
何か…深く掘り下げるととてつもなく深い穴を掘ってしまいそうな何かを感じた。
◆
リーゼの交友関係もあり、学者でもなく、生徒でもなく、ましてや白人でもなく…という
ジョフィエは気が利きすぎるほどにリーゼに対して「僅かな合間に本だけを借りて行く
(一週間ほどして返しに来る、その時来客中であれば日を改める)」
と言いう間柄のまま過ごした。
途中リーゼが第一次世界大戦に看護師として従軍した時にはハウスメイキングを受け持ちもした。
その時も、研究所に復帰するため戻ったリーゼが部屋を引き継いだ時には、明け渡した時と
全く、本の並び一つに至るまでそのままであった。
どうも、彼女は本は確かに借りるのだが、それらをただ読むだけでなく、細かい字で
きっちりと写本しているようだった。
それを知ったのは、ドイツ語圏以外の本のドイツ語訳に対して改めて写本してから
勉強に没頭しているのだろうジョフィエから誤訳があるのではないかという指摘を受けた時に
その綿密な写本を見てリーゼはちょっと圧倒されたからだ。
リーゼは、そんな彼女にタイプライターを贈った。
ハウスメイキングの僅かな謝礼の…ボーナスというような名目で。
一度リーゼはジョフィエ宅をお邪魔した。
決して広いとも快適とも言えない屋根裏だった。
沢山の紙類と自分の贈ったタイプライターと…僅かに「生活」を感じさせるものだけがあるような。
「そういえば…普段は何をしているの?」
向学心旺盛な女性という以外余りジョフィエの事を掘り下げなかったリーゼがふと疑問を投げかけた。
「アルバイトですよ…何もかもが最低限で構わない…それより…わたしにとって今…
この科学の勉強をしている事が何よりの幸運なんです、感謝しています」
もし、ジョフィエがせめて白人であるなら…何か教職でも世話が出来るのかも知れないが…
リーゼもちょっと流石にこのジョフィエの現状に胸が詰まったが。
「お気になさらないでください、リーゼ、貴女がわたしに本を貸してくれる…
返すと信じて貸してくれるだけで、わたしには有り余る幸運なんですから」
確かに、現状の世論ではこれでももの凄い「譲歩」のような…施しというか
同じような境遇の白人の女性も居るだろうから、そう言う意味では「自分が気に掛けて
本を貸す事もある」と言うだけで十分贔屓を受けていると言える。
「…それで…」
リーゼがジョーンが数学を併せて勉強している走り書きのような紙を手に取り、切り出す
「それで貴女は、最終的にどうしたい?」
人間には、野心も必要だ、少なくともリーゼは慈善事業家ではない、自らも大変な苦労をして
やっと研究職にありついた身、そういう心構えは必要だと常々思っていた。
ただ、ジョフィエの場合それは叶わないだろう、自由の国とつたね聞くアメリカですら
有色人種の…特に黒人の血が入った彼女には…最初のチャンスすら与えられないのかも知れない。
「こんな風に…知に飢えている子供は確実にいますから…とはいえ、正式な教師には
なれないでしょうし…本当に私的な塾で…少しずつ色々と教えて行く…というのも
悪くないな…と思っています」
いいことだ、とリーゼは思った。
民間でも(リーゼの実家はやや社会的地位も高めであった)成績が良ければ
一番最初の壁を突破する事は出来るかも知れない、社会が成熟して行けば社会保障が
充実して行けば、苦学の中研究職に就ける…社会的地位の低い層も出てくるだろう。
知の世界は、決して恵まれた人だけのものではない、今はそれなりに地位も手間も掛かるが
少しずつ、それは緩和されて行くだろう。
「そうね、私もまだ…正直お金持ちとは言えないから、私に出来る事は本を
貸してあげたり、貴女の質問に答える事くらいしかできないけれど
…それでも、貴女を応援するわ」
ジョフィエはにっこりと微笑んだ。
これらはヴァイマル共和制ドイツになってまだ日が浅かったある日の事だった。
◆
1920年代もだいぶ進むと、リーゼは教授として教鞭を執る事も出来るようになった。
彼女も、必死の努力で自分の未来をつかみ取っていたのだ。
一研究者から、それを兼ねての教授職なのであるから、それはもう目の回るような忙しさだった。
ジョフィエはその空気を読むがごとく、少しずつ、リーゼの厚意に甘える事も無くなっていた。
だが、自分の講義にちょくちょくジョフィエが密かに紛れているのもリーゼは知っていた。
それを咎める気もなかった。
彼女は熱心だった、相変わらず、大きいとは言えないメモ帳にきっとまたびっしりと小さな文字で
自分の一言一句を、自分の生徒達に対する問いかけにも自分なりの考えや答えを書き込んでいるだろう
様子にも、彼女は満足した。
ある日、珍しい事に友人達の手紙の中にジョフィエの名の手紙がある事に気付き、
リーゼがそれを読むと、簡単な近況と共に彼女の疑問が書き綴られていた。
「元素の電荷数に対して質量数が倍からそれ以上になる理由は何故なのか
その電荷を持たないものの正体は何なのか」
と言う事であった。
それは中性子が絡むのだが、判らなくて当然であった
この時、まだ中性子は発見に至っていなかったからである。
質量数1の水素原子核…陽子の電荷は+1である。
それに電荷-1の電子が組み合わさる事で中性になるが、電子軌道的に(1s軌道)もう一つ
電子が入る隙間があり、それ故に水素は二原子分子としてお互いの電子軌道をお互いの
電子を共有し会う事で安定して存在している。
不活性元素と呼ばれるヘリウムやネオンなどの希ガス以外の特に気体元素は、こんな風に
空いた電子軌道を共有する事で二原子分子として存在しているものも多い。
特に水素はその構造からも非常に判りやすい。
水素に関する電子軌道などはこの時期隆盛を始めていた前期量子論もありだいぶ判っていた事だが
初めから電子が二つあり、粒子数がいきなり4になる原子番号2のヘリウムについては既に五里霧中だった。
これは当時の科学者にとっても謎であったし、まだその答えが見つかるには道のりが必要だった。
ただ、それは放射線の研究を紐解いて行けばいつかたどり着くとリーゼは思っていたし
幾つかの仮定と共に、自らの記憶の引き出しの中にもそれを偲ばせておいた。
ドイツでは、ナチス党が台頭し始めていた。
1930年、凄く久しぶりにジョフィエの家を訪ねたリーゼ、丁度ジョフィエはビーカーの液体について
思考を巡らしていたところだった。
リーゼの訪問にジョフィエは驚いた。
「それにしても貴女は年を取らないように見えるわ、私なんてもう見た目からだいぶいい年なのに」
驚きつつ、ジョフィエは応えた
「そういう風に、見えるだけですよ」
まぁ、人種も違うし、アインシュタインに依れば日本人なども相当に年齢不詳に見えるというから
そう言うものなのだろうとリーゼは思い
「…それで、何をしてたの?」
「これ…水なんです、でも、ただの水でもないんです」
「どう言う事なの?」
「質量数が2の水素で出来た水なんです」
「…質量数が2の水素ですって?」
今で言う、重水である。
正確には重水には水素が質量数2(デューテリウム)でなくとも、存在数の少ない
酸素18(通常最も多い酸素の質量数は16である)の水も含む。
そして、これらはまだ現段階で未発見であった。
当然である、中性子すらまだ確認されていないのだから。
「化学的性質は?融点や沸点…そして何より…これをどうやって?」
リーゼは驚きもあったが、すべき質問はした。
「比重は当然普通の水より重い…化学的性質はほぼ同じです、融点や沸点は通常の水より僅かに高い程度
…飲んでも少量なら健康に害はないようです」
リーゼは感心したが
「なるほど……でも最後の質問に答えていないわ」
ジョフィエはかなり深刻に考え出したというのをリーゼは受け取った。
以前の自分であれば「何となく聞いてはいけない事」のように思ったかも知れない
だが、今この瞬間に、彼女の知的好奇心が何よりも勝ってしまった。
突っ込んで聞かざるを得なかった。
ジョフィエもこれを見られるとは思っていなかったのだろう、どう見ても
誰か他人が来る部屋にも見えなかったし、ジョフィエ以外の気配が全くしない部屋だったから
おそらく、ここに来た事があるのは何かしら用事があった家主などの他には自分だけなのだろうと
判っていた、それだけにその「質量数2の水素を使った水」の事を見られるとは思っていなかったのだろう。
咄嗟に嘘をつく事も出来るのに、彼女は正直に「質量数2の水素」の存在を告げた。
そしてジョフィエは観念したように口を開いた。
「わたしには…オカルトと揶揄される力があります…とはいえ、それは何らかの
宗教なり、儀式なりと言った事ではありません」
いきなりの話題にリーゼは混乱しかけたが、確かに今までの…僅かな付き合いでも
ジョフィエに特定の宗教に対する信仰や、何かしら魔術めいた事に傾倒しているような
素振りも、そのようなものを臭わせるような道具なども見かけた事はない。
「ええと…それは…科学に対する一種の挑戦のような…?」
ジョフィエは、意識的にカーテンをほぼ閉めた。
「少々お待ちください、暗さに目が慣れるまで…」と言った後、
彼女が中空に指を差すと、ちょっとした光が彼女の指の先に光ったと思うと
そこから何かしら粒子のようなものが生まれ螺旋状にくるっと回ったかと思うと
一瞬でまばゆい光を放ち消えてしまった。
「空間に…一定のエネルギーを与えると…対の電子が生まれます…
恐らく…ディラックの予言した陽電子と…電子の対です
ただ、借りのエネルギーで生まれた粒子は借りを返さねばなりません…
二つは電荷が+と−と言う以外は全く同じ…二つは再び出会い、光子として消滅します」
この当時、陽電子もまた未発見であった、ただし、その存在はディラックによって予言されていたのである。
何が起っているのかは、リーゼには理解できた、だが…
「なぜ…そんな事が可能なの?」
「判りません…その理屈が判らないのです、そして…今わたしが行った事も
それが何であるのか…ずっと判らないまま過ごしてきました」
本人にも原因が不明である事を聞いたところで全ては無駄だろうとリーゼは了解した
「羨ましいわ…正直に言えば…私がその能力欲しい」
「リーゼ…でもこの能力を持ったところで…追試は不可能なんですよ」
それを言われると、リーゼは言葉に詰まった。
「…なるほどね…確かにそう、何か目覚ましい発見をしたのだとしても
追試が出来なければ誰に認められる事もない…それは確かに私にとっては苦痛だわ
そして…貴女が私と初めて会ったあの日…貴女の目の輝きが何なのかも了解したわ
それは…貴女の「力」に対して「理由を与える」行為だったって訳ね」
「わたしも…知りたかった、根本の理由はわからなくても、それによって
何が起きているのかを知りたかった…それを知らなければ…わたしは
大変な事をしてしまうかも知れなかったから」
「…そうね…科学は…人類の幸福のために…私はそう思っているけれど…
少なくともそこまでは思っていない科学者や政治家が居るのは事実…
でも…なんて自制心…感服するわ…最初に告白しなかった不誠実は許してあげる…
というか…そりゃ、確かに言えないわよね」
リーゼには訳がわからなかったが、でもその力を彼女がもの凄い自制心で
抑えている事はよく判った、それで自らを売り込んで見世物になるでもなく
その現象がなんなのかをきちんと科学に乗っ取って知りたいというのだから。
「…詰まりその…粒子数2の水素を使った…仮に「重水」としましょうか
それも貴女が作った?」
「いえ…、それには…この電荷を持たない粒子が何なのかをわたしは
知らなければなりません、そしてそれは…世界中の誰もまだ知らない…」
「電荷を持たない粒子?」
「はい、陽子に対して一つそれがあります、質量はほぼ陽子と同じ…若干陽子より「重い」」
「…質量数に絡むのはその粒子の存在…と言う事ね。
陽子が二個以上くっつく為の…緩衝材というか…そう言う役目なんだわ…
ひょっとしたら…その存在が…放射線を生み出す元なのかも知れない…」
「わたしには…今のリーゼ…貴女の推論を導く素地がない…見えているだけでは…
何も知らないのと一緒…だから…知りたかった…」
「…今私はこの推論を建てたけれど…これも「貴女の話を信じたとしたなら」という
大前提なのよね…そう…なるほど…確かに…辛いでしょう、見えているもの
自分がやれる事に存在しているはずの理屈が付いてこないというのは…」
「はい…重水(仮称)は…水から分離しました、ほんの僅かしか存在しないですが
普通の水にも含まれているものですから」
「何てことかしら、そこかしこにヒントはまだ沢山転がっているのね…
重元素ばかり研究していたけれど…ん?」
リーゼは紙類で山になっているその部屋の隙間から見える壁にポートレートが
飾ってあるのが見えた。
ジョフィエはちょっと…いや、かなり照れながら
「あ…いえ、その、貴女の研究や人生に対する姿勢に感銘を受けまして…」
それは、リーゼの写真だった。
何かの雑誌だったか…それとも印刷物のための写真だったか…少し前の
研究室時代の写真だった。
「貴女にとって、私はヒーローって訳?」
ちょっとおかしそうに、でも正直に光栄に思って、それで居てちょっとからかい気味に言った
「…はい」
「貴女の持つ能力…世の科学者が全員それを持てるかも…となったら
みんな欲しがるでしょうね、それが標準なら、私だって欲しい…
そんな能力の貴女が…ひたすら理屈を追及する私を…か…でも、
それは貴女に必要な努力なのよね」
「はい、貴女は私のヒーローです、直接教えを請える身分ではありませんので
あくまで…雲の上の存在です」
「くすぐったいわね…(苦笑)こんな小さな切り抜きなんて貼って置かなくても…w」
流石にリーゼも本気で照れたのか、ちょっと笑い気味になったが
「もっと…マシなの差し上げるわ、ポートレートとしてちゃんと使えるような」
ジョフィエはちょっと焦り気味ながらも恭しく礼をした。
そのやりとりより数日…
ジョフィエの元に六切版サイズ(203×254ミリ、8×10インチサイズ)の
彼女のポートレートが贈られてきた。
◆
中性子の発見も、重水素の発見も、陽電子の発見も何故か全て1932年だった。
この発見にリーゼは特に寄与は出来なかったが、あの日、恭しく語った
ジョフィエの言葉は本当で、そして、理屈が必要だったと言う彼女の言葉が
真実だった事を確認し、普通に考えたら気味の悪い話のはずなのに、リーゼは
ジョフィエの誠実さに満足した。
しかしそれ以前にリーゼの周りの状況はどんどん悪化していた。
ナチス党による一党独裁は完了しつつあったし、彼らは自分の存在を
疎ましがっていたし…「科学を追究する」大前提の中で彼女の存在は
社会的に黙殺されそうだった。
ナチス党一党独裁が完了し、自分も教授職を解かれたり、研究所も辞任に追い込まれたり…
1938年、彼女はオランダ伝いにスエーデンに亡命した。
彼女には確かめたい事が山のようにあった。
「電荷を持たないほぼ陽子ほどの重量を持つ粒子」中性子が元素に及ぼす影響は
当時の核物理学者の間ではもう既にホットな話題であったし、
中性子を利用すればより重い元素を合成できるかも知れない、というフェルミの予想も
またこの業界を賑わせていた。
しかし、そのほぼ全てをドイツにやりかけの状態で置いてくるしかなかった。
ハーンとシュトラスマンがそれを引き継いでいたが、ほぼ荷物もなく亡命した
リーゼにとっては、先ず生活を確かなものにするだけで一苦労だった。
しかし、そんな彼女には友人もあり、励ましや本人の気力でまた少しずつ
スエーデンでの生活も出来るようにしていった。
ジョフィエからも手紙があった、彼女はすでに1930年代中頃には
ドイツを去っていて、パリに拠点を置いている事だけは知っていたが
そこでもやはり、彼女は屋根裏部屋を基本に、そしていつかリーゼに語った
「私塾」を始めた事がその手紙にはあった。
それもまた、リーゼには励みであった、負けていられない。
あらゆる世の出来事、人の営みに負けていられない、と。
まだ生活も安定しない1938年…リーゼの元にハーンとシュトラスマンから
実験結果に対する見解を求める手紙があった。
超重元素を合成すべく、ウランに中性子を放つ実験を試みていたが、
ウランより重い元素はおろか、何故か半分ほどのバリウムが検出されたというのだ。
ハーンは古くからの同僚で、共同研究者としても長い付き合いがあった。
ちょっと心情的に許せない面はあるものの、その手腕は買っていた。
ウランに中性子を打ち込む実験に対してバリウムが紛れ込む、あるいは誤検出する
などというミスは有り得ないとリーゼは直感し、それが一体どう言う現象なのかを考えた。
そんな時、ふと…
あの日ジョフィエが見せた「空間に一定の適度なエネルギーを与え生まれた対の粒子は
瞬く間に再結合し、エネルギーへと帰結する」というものを思い出した。
ひょっとして、ウランに対してその中性子は結合に作用するのではなく
分裂に作用したのでは…
「適度」が何を指すかによって効果は変わる、そして結合に使われているエネルギーは
分裂によって幾らかそれを解放するはずだと。
こうして、リーゼはフリッシュと連名で核分裂に関する論文を発表した。
その頃には粒子数に対して「安定同位体」「放射性同位体」というものも
紐解かれ始めていたので瞬く間にこの「核分裂」とそれによって解放される
核エネルギーはホットなものとなった。
しかし、時は第二次世界大戦に突入する時期である。
亡命したスエーデンでの待遇は決して良いものではなく、苦渋を味わっていたリーゼであったが
1940年、ジョフィエから…どうもかなり紆余曲折があったらしいが手紙があった。
ドイツからの亡命に依って研究が断絶した事は慚愧に堪えない、しかし
今のドイツではあらゆる「可能性」が研究されており、自分がかつて見せた「能力」の元…
「矢とそれが及ぼす淘汰に伴う能力の獲得」について…科学的見地からドイツにしても
連合国にしても…その誘いに乗ってはいけない、と言う物だった。
突然彼女は何を言っているのだろうとも思ったが、だが「理屈では表せない能力の獲得」など
危険窮まりない事だけは承知していたので…とはいえ、ジョフィエの返信先はなかった。
返事を出す事は出来ないが、この「矢」を含め、あらゆる大量破壊兵器などに関わる事などは
何があっても有り得ないとリーゼは固く決心していた。
「言われなくても…私は進む道は決まっているのよ…」
1943年、イギリスから原子爆弾製造に関する研究の参加を打診された時、彼女は
それを突っぱねたのだった。
科学は、それを特定の誰かの利益のためだけに還元させるものではないはずだと。
1945年、アメリカではウラン型原子爆弾とプルトニウム型が製造され、それぞれ
日本の広島と長崎で使用され、多くの一般人の犠牲者を出した事はよく知られている。
彼女の元にも取材が殺到した。
その時点でフリーに近い核物理学者が彼女くらいしか居なかったからだ
そして、核分裂を理論的に証明した学者でもある。
彼女にとってこの取材は苦痛でしかなかった。
原爆の投下などそれで知ったくらいであった、そのくらい、自分はその話題から
疎外されてきたというのに。
「ハーンも自分も、そのようなものには関わりがない」
と伝えるのが精一杯であった。
短期間ではあるがアメリカに快く迎え入れられ、その後…ドイツに戻り、住む事はなかったが
尊敬する師であったプランクの葬儀など、僅かにはこの後も死ぬまで関わりを持つ事にもなる。
1952年には、彼女は研究の身から引退した。
それでも、最新の研究には目を通すようにしたし、何か発言の機会があれば
機会の均等など、あの日のジョフィエはまた少し違った理由ではあったとはいえ
真正面から勉学に向き合える環境の整備、チャンスなどの機会をもっと広く
与えられるようにも訴えた。
1960年
彼女はイギリスに渡った。
余生をそこで過ごす事にしたのである。
そして…1963年の事であった。
使用人が都合により身を退いた事に対して、一人の応募があった。
「ジョーン…ジョット…?」
その名に、なにかもの凄く彼女は記憶を揺さぶられた。
そして、彼女がやってきた、時代遅れとも思える使用人の扮装をして
髪の毛もウェーブが入っておらずストレートではあるが…混血らしい
そしてその大きな黒い瞳に、リーゼは息をのんだ。
「ちょっと待って…ジョーンという名に記憶はないけれど…
貴女のその顔…とても記憶にあるわ…」
そこで、彼女は嘘をつこうと思えば幾らでも付けたはずだった。
「お久しぶりです、リーゼ。
わたしは…歳を取れません…なのでこのように…各地を転々としながら
名前を変えて…生きているのです」
「ああ…もう…貴女って何でもありなのね…でも、相変わらずだわ
つまりジョフィエも偽名だったと言う事なのね、でも、それもしょうがないわね」
「申し訳ありません、でも、偽名というわけでもないのです」
彼女がパスポートを示すとそれは確かにジョーン=ジョットであるし
生年月日も…恐らくはデタラメなのだろうが記載されている。
「ああ、でも1月6日っていうのは本当の誕生日なんでしょうね、貴女の性格からすると」
ジョーンはにっこりした頷いた。
「まぁ…貴女なら信頼できるわ、宜しくね…もう私も歳だけれど」
この時既にリーゼは80を越えていた。
「あれから…もう結構経ったけれど…核分裂の理論…読んでいただけたかしら?」
「勿論です、わたしが「やってはいけない事」を数字で示していただけて感謝しています」
それを聞いてリーゼは満足そうだった。
「良かったわ、あなた…私塾はもう辞めたの?まぁ…ここに使用人として
働きに来るからにはそういう事なのでしょうけど」
「…パリでしたし…その後はレジスタンスに協力してましたから」
戦争は、彼女の「流転」のサイクルと相まって二度と取り返せない
充実した毎日を奪ったのだと言う事をリーゼは理解した。
「40年だったかしら、「矢に関わるな」って手紙は…」
「いきなりで申し訳ありませんでした、もうあの時はあれで精一杯で…」
「まぁ…個人だって利害の対立というものは起こりうるもの
まして国と国なんてね…私は頭ごなしに平和を訴えるつもりはないけれど…
でもやはり…残酷だわ…」
「はい、人の歴史はその繰り返しでした」
その一言は、彼女が少なくとも自分より長く生きて来た事を示していた。
「多分…戦争自体が無くなる事はないでしょう…でも…
多分だけれど…核というものを利用する立場になった今…
流石に人類は自制心を試されるはずだわ…険悪でも
平和と呼べない事はない時期も…続くでしょう
…勿論こんな事…現在進行形で争っている地方では迂闊に言えないけれどね…」
リーゼは慎重に語った。
今自分の居る場所が平和だからと言って、世界がそうとは限らない。
少なくともアジアを基点にアフリカでも旧態から抜け出し、独立するための
争いは繰り広げられていた。
中東も、かなり険悪な時期を繰り返していた。
「ジョフィエ…ああ…いえ、ジョーン、貴女…もう勉強はいいの?」
「今は…それなりに科学雑誌も発売されるようになりました。
昔よりはわたしでもそう言ったものを気安く手に入れられるように
なりましたし…複雑化して専門化…科学の分化が激しくなってきた今…
わたしが「基本的に抑えておくべき知識」は慎重に選ばなければなりません
少なくともわたしは…社会的地位は築けないですから」
「…そうね、でも、いいのよ、休憩時間には本でも論文でも…
それなりに最新のものも押さえてあるから、勉強していって」
「はい、有り難う御座います」
◆
鼻歌交じりにジョーンが掃除をしていると
「ああ…それなんて言ったかしら…あなた…ビートルズなんて聞くのね?」
リーゼは基本、ああいった物は理解不能だった。
それなりの良家の嗜みとして学んだ物は既に「クラシック」であるし彼女もピアノは弾けた。
「気が若いというか…柔軟でなければ生きて行けないのは理解するけれど、
柔らかすぎてなんだか半分呆れてしまうわ」
ジョーンは結構ミーハーだった。
テレビやラジオでビートルズの新譜が新発売だ新曲だとなれば、その次の日にはジョーンは
もうすっかりその曲をマスターしたかのように軽く歌ったりしていたからだ。
「貴女ひょっとして、楽器などもできるの?」
「ええ…はい、そう言う職業もやっていましたので」
「あらあら…では何か聞かせてくださる?ああ…!でもエレキギターとか言うのは勘弁してね!」
ジョーンはバイオリンと共に「エリナー・リグビー」や、ピアノと共に「イン・マイ・ライフ」など
「ビートルズにしては」クラシックな世界にも受け入れられそうな物を時々披露した。
エリナー・リグビーはリーゼに不評であった。
理由は、余りに寂しすぎる、というものであった。
確かに、交友関係はそれなりに広くとも独身を貫き、その業績でも
孤独を味わったリーゼにとってはそのエリナーの孤独な死の内容は余りに寂しい物であったし
ジョーンも同じように…もっと孤独であるはずなのに、それを歌えるなんて。
リーゼには、時折来客もあったし、それなりに人との関わりもあった。
そう言う時はジョーンは表情に柔らかい微笑みを湛えつつも、最低限且つ
必要以上には絶対に踏み込まない態度で完璧に使用人としての仕事をこなした。
1968年
流石にリーゼももう90を目前にかなり衰えていた。
記憶から何からもうあやふやであるが、ジョーンはいつもと変わりなく、仕事と
話し相手をこなしていた。
長年の付き合いであったオットー・ハーンも既に亡く、リーゼももう命に対する
というか将来に対する野心も消え失せて久しいし、静かに消えゆくのみだった。
「あなた…これからどうするの?」
意識も記憶もちょっとはっきりした日に、自分の世話をするジョーンにリーゼは聞いた。
「…どうしましょうね…」
「…多分…どこかに着地できるんでしょう…私が心配する事ではないのかも知れない」
そう、愚問だった、とリーゼは思った。
だが
「でも…いつまでも繰り返せる事ではないわ、貴女には…何か目的があるはず…
何の目的もなく…物理現象を操り、不老不死で居られるはずがないもの…」
「どれほど知識を得て…自分の出来る事が何であるのか一つずつ掴み取っていっても…
わたしにはまだまだ…暗闇の荒野を手探りで進んでいる気分です…」
「そう、そのはずだわ…でも…絶対にいつか…何かが見つかるはず…
諦めてはダメよ…貴女の野望は…貴女の生きる意味を…成すべき事は
何なのかを見つける事にあるんだわ…普通の人だと…
そこが新たなスタートのはずなのだけど…」
リーゼはジョーンを見つめた。
「私の予想だけど…聞いてくれる?」
リーゼがちょっとあの頃のようなギラギラとした科学者の目になった。
「何ですか?」
「多分…貴女のゴールは…とてもあっけない物だと思うの
もの凄く苦労して、色んな物を得ては失いを繰り返し
やっと見つけた答えは、多分とても呆気のない物…」
「…はい」
「でも…多分それは…とてつもなく大きく、偉大な何かなのだわ
…私はその道筋を教えたり、チャンスを与えたりといった事は出来ない
だけど…祈ってるわ、希望の地平線に向かって…貴女が荒野を走り抜ける日を」
「有り難う御座います…きっと…その時を迎えます」
1968年10月27日、リーゼ・マイトナーは90歳を目前にこの世を去った。
ジョーンはその葬儀などにはちらっとした参加せず、まとめられる物をまとめ
最後のハウスメーキングを行った後、使用人を退職した。
長い人生を送るジョーンであったが、関わった人物のその死まで関わり続ける事は
殆ど無かった事だった、もの凄く悲しい気持ちもあるはずなのに、死に立ち会えたと言うだけで
彼女にはそれで満足であった、そして、その次を考えて行動もしなくてはならない…
そして時は流れる、86年の事件、2001年の事件、02年04年、色々な事があった。
◆
2007年夏
探偵社事務室兼女性従業員寮室でもあるその部屋。
ジョーンの僅かな荷物がリベラの…猫のおいたで床に散らばった。
「あらあら、リベラ!」
ルナがリベラを叱ると、リベラは一目散に逃げて行く。
そういえば…とルナは思った。
僅かな荷物とは言え、どんな物を「私物」として持っているかなど
聞く事もなかったな、と。
初めてジョーンと出会った2月には古銭を持っていたが、それは
欧州中に隠した財産であって常に持っているわけでもなく、
彼女の大好きなビートルズにしても1980年代にはステレオを含め
全て処分した事は聞いたし、その後彼女が買ってくるものは
私物と言うよりは「共有財産として」そこにあり、
本棚や、小物を置く棚にある本も、CDも、全ていつだってそこにある
「三人共有の」ものであった。
時折ミュリエルにそれを貸す事があるくらいで。
彼女が私有財産として持っている鞄の中身は、そう言えば結構なブラックボックスだ。
今その中身が幾らかこぼれていてその中身が判る。
手紙が幾らかとか…そして何か封筒。
今ジョーンは逃げたリベラを構っていて、キッチンにいる。
いざ、目に前にしてしまうといつもは気にならなかった物が一気に気になった。
黙ってみようかなとも思ったし、それを気にしない振りをして元に戻そうかとも思ったが…
「…ねぇ、ジョーン、貴女の私物…今リベラが落としてしまったのだけど…」
あらあらあら…とまるで暢気な主婦のようにエプロンで手を拭きながら近くに寄ってきたジョーン
しかし、ルナの手前二メートルほどの位置で立ち止まり、微笑みを湛えこう言った。
「いいわよ、見ても。
これも何かの…縁なのかも知れないから」
「悪いわね…(苦笑)何だかどうしても気になってしまって…
とはいえ黙って見るのは流石に悪いし」
「この間は波紋やスタンドに関わる事しか話さなかったけれど…
前ちらっと話した事の補足みたいな物だわ、どうぞ」
私物といえど大した物はなかった。
それこそ手紙とか…しかも消印などから察するにかなり間の開いた…
「…これ…リーゼ・マイトナーからだわ…
ええと…Zyofie…当時はジョフィエと名乗っていたのね」
「直接教えを請う事は叶わなかったけれどね、色々と便宜は図ってくれたわ
あの時期の私に色々と本や論文を貸してくれた事だけでも…十分、尊敬できる人よ」
「…流石に中は貴女がいいと言っても見る気まではしないわね…プライバシーもプライバシー
時期的にパリに移った事に関してとかそういう事だろうし」
「そうね、あとは当時未発見だった中性子について、わたしの質問に
仮定で応えている物とか…」
「あなたも…前も言ったけれど、結構人と関わってるオマケに…
師と呼べ、仰げる人も多いのね、波紋のメッシーナ師とか…
そして…あたしにとってもこれはでかいわ…リーゼ・マイトナーか…」
封筒の方に手を掛け、その中身を見てみると…アイリーがいつのまにか
一緒にそれを見ていて
「おー、何かカッコイイ女性だね」
それはリーゼのポートレートだった、余り気取った風でもなくしかし矢張り
生来の生まれの良さ、育ちの良さで服装などはきちんとしている
ツーピースのスーツのようだった、そして、余り気取った風でなくタバコを手に持っている。
「…ジョーン…貴女…煙草吸う切っ掛けはリーゼでしょ」
ジョーンはちょっと恥ずかしそうにして
「ええ…当たり」
「ホント…ミーハーなんだから…でもこれ…原板に近いというか…
もしかして本人から貰った物?」
「ええ」
「へぇ…生徒にはなれなかったそうだけど…きっと貴女の純粋な
向学心にシンパシー感じたんでしょうね、何かよく判るわ」
「…そう言えば…」
ジョーンのつぶやきにアイリーが
「うん?どうしたの?」
「彼女のキャラ…貴女に少し似ていたわ、ルナ
理屈と理屈でない事のバランスをいつも考えて居た人だった
口調も少し似ている」
「あは、そっか、ルナもじゃあ学者さんに向いてるのかもね」
「…まぁ…割とそう言うつもりもあったけれどね…
でもあたしは現状が凄く幸せだわ、こういう人生も、悪くない」
彼女の身にも沢山の出来事があったし、辛い事もあったが
それも含めて、ルナはやっと「それでも結構幸せだ」と思えるようになっていたので
自然にその言葉が漏れた。
アイリーもジョーンも、そのルナの言葉に胸がいっぱいになった。
ルナはポートレートをまじまじと見つめて
「これ…飾りましょうよ、折角のポートレートよ、勿体ないわ、あたしも
リーゼ・マイトナーは尊敬する学者の一人だし…そうね、明日にでも
額縁探しに行きましょうよ」
「ねーねー、あたしらもさ、一枚くらいポートレート残さない?
社としてと言うか、あたしらで、友達として」
ルナは微笑んだ、そしてジョーンを見た、
自分の形跡を残す事を、彼女が承知するなら、と。
「ええ、いいわ、リベラも一緒で撮りに行きましょうか」
まだまだ、ジョーンの地平線に希望の光は見えない、でも
手探りだったその足下は今や探偵社の面々…特にルナやアイリーによって
照らされている、その認識はあった。
今、幸せだとジョーンも思っていた、ここに痕跡を残したとしても
構わないと心の底から思った。
第二幕 番外編3「Wild Ambitions」 閉幕
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