L'hallucination 〜アルシナシオン〜

CASE:EIGHT

第五幕


逃げた怨念は逃亡経路にあるモノを追ってくる弥生に向けぶちまけたりしながら
目的地に向かっていた、弥生はなぜかその場所を百も承知と追い、
詞による防御を敢えてせず、ただひたすらに自らの戦闘能力を高め、
階段の取り場のスペースでイツノメを抜き、飛んできた燭台も敢えて受け、
(火の始末だけはしつつ)頭が血にまみれても一目散に「ソイツ」を追った。

「ソイツ」がそしてその場所…病室の前まで後一歩、もう一度ソイツは叫んだ

「我! 道連レヲ欲スル成!」

そこへ一気に勝負に出た弥生が

「神奈を連れていこうなんざ…このあたしが許さねぇぇぇええええ !!」

その気迫、一瞬どちらが怨霊だか判らなくなるほどだった。

そして、一瞬、一閃、弥生の刃は詞を纏い「ソイツ」を切り裂いていた。
咆吼を上げ、弥生の祓いに強制成仏させられる姿は、扉の向こう…
(緊急事態だと言う事で開いていた)病室内の医師と看護婦が見た。
ソイツは、確かに祓われた。

「…道連れなら絶対連れて行きやすそうなのを連れてく事を考えるだろうと思ったよ…」

弥生は頭から血を流しながら医師の方を見て

「どうだい、患者さんの様子は」

「あ…ああ…とりあえず落ち着いたんですが…このままでは体力が…」

「そうか…今夜は持ちそうかい?」

「そうですね…この数日が山…と言いますか…」

その医師の言葉にとりあえず弥生は「騒がせたね」とお辞儀をして去り、
治療を施しつつ井戸の場所を教えて貰い、水で血を流して濡れた服を詞で乾燥させた。



霊安室に戻ると、やいが尼僧にアイヌの神話などを話していた。
弥生は呆然としている事務員に

「申し訳ないんだが、逃げた奴が出鱈目にその辺ひっくり返して回ったんだ、
 後始末、頼むよ」

「…はっ、あ、はい! そうですね…それであの…祓いは…」

「今は祓うべきはもうないよ、あとはあの観音尼僧さんに色々教えないとな
 上手くすればあの尼さん、仕舞いには神に昇華するかもしれないね
 神や仏、その教えを心の救いと信じてるお人だ、立派なヒトだよ」

そして、職員で手が空いてる者達が後始末や、他の病人達のケアに回って真夜中も大分
いい頃合いの事だ。

弥生は何とか聖書だけは療養所内で調達できて、それを観音様に捧げるカタチで渡し、
やいと二人で詞を教えたり、キリスト教の考え方を日本式にどうすれば
解釈が易くなるかなど日本と西洋の似ている所、似て非なるトコロを解説した。
勿論伝授した詞の中には継続し体調を安定させるモノも含まれる、今後
月イチ定休日などなくてもいように、だ。

そのうちやいが

「余りこちらに時間を取りますと、夜が明けてしまいますよ」

「…ん、そうだね、おやい、少しの間だけ…済まないね」

「伝えるべきを、伝えてきてください」

弥生がやいを撫で、中座した。

『何があったのです?』

「巡り合わせの妙と言いましょう、偶然仕事できただけの筈のここに
 弥生さんが若き日に伝えたかった事が伝えられなかった人が入院されて居るのです」

『それはそれは…縁(えにし)というモノですね』

観音尼僧さんが手を合わせて祈りを捧げた。



容態は落ち着いたと言う事で祓いの後片付けもあり、
神奈の病室には今は誰もいなかった。

ただ廊下には詰まりその作業なりを静かにゆっくりやっている職員が居る。

この療養所は二階建て…二階奧は重度の患者の隔離病棟でもあった。
その窓が開く。

壁伝いで登って来たのは、弥生だった。

神奈の変わり果てた姿、弥生の胸が締め付けられる。
もう意識もないと言っていい状態で「いつ死ぬか」そう言う段階だった。

弥生は幾分禁じ手だと判っていても、それをやらずにはおけなかった。
祓いの力で、神奈の中の病原体を浄化していった。
痛んだ臓器も治せる分は直して機能を整えていった。
とはいえ「病は気から」、これは結構真理を突いていて、結局は本人の
生きる意思が何より大事なのだ。

弥生は神奈のベッドの上に上がり、やせ細った神奈の顔を真正面から見つめ

「…あんたはあたしを若き日々の情熱そのものだと言った…
 だがあたしは敢えてもっと身も蓋もなく言わせて貰うよ、神奈…
 あんたはあたしの初恋だ…女のカラダは知ってるなんてそんな事
 言えたモンじゃないし、札幌の地では東京時代胸に刻んだ
 「迂闊に本気になってはならない」って事だけを何故か刻んでいた…」

「それで居て、何も言わずともアンタは判ってくれると勝手に期待していた、
 それが間違いだったと気付いたときが、あの別れの時さ…
 格好付けないで言えば良かったと、あの時になって初めて思って酷く後悔したよ
 あんたと過ごした日々は、代え難いあたしの大事な初恋の日々さ…
 だが、あたしと関わった事で結局あんたを不幸にさせちまったみたいだね…
 本当にゴメンよ…そしてあたしの最後の我が儘だ…」

十六夜月夜の光が差し込む窓越しに、弥生のシルエットが少しだけ
神奈に被さる、すると、定期巡回と言う事なのだろうか、この病室に入ろうとする
人の気配を感じた弥生。



看護婦が病室に至るドアを開けたとき、軽く外の匂いを感じつつ、そこには
東川神奈一人が相変わらず意識不明の状態で動いた気配もなく
横たわっていただけだった。

ただ、その神奈の目に涙が伝った跡があった。



その後朝まで突貫講習をしつつ、とりあえずここまでだ、と弥生はそう言って
今回の仕事の全てを切り上げた。

そして神奈について聞いた。

数年前…弥生と別れた後、神奈は室蘭で結婚をする予定だったのだが、
その時に発症してしまったのだ、結核を。
元々結婚するには二十代も半分といった所の「トウが立った」神奈を
舅や姑は気に入らなかった事もあり、結婚を破談にしたのだ。
ただし、一応は人の心があったか、結納金や嫁入り道具を処分したお金で
神奈をここへ入所させたのだ、旦那になるはずだった男は最後の情と
東川家にその旨連絡を入れていたが、東川家も北海道内とは言え室蘭からだと遠い地にあり
ほぼ何もできずに、今、ここまで来てしまっていたのだ。

既に三十路すら越えている、弥生は自分のした事に
「恨むならあたしを恨んでくれ、でもあんたにはこんな死に方はして欲しくない」と
強く拳を握りしめた。
やいはその気持ちを察し、弥生の拳を柔らかく包んだ。

とにかく、祓いは終わった、相手に意識があろうとなかろうと言うべき事は言った。

もう、終わったのだ。

弥生達が療養所を去ると言うときに、見送りの一団に上の階から看護婦が一人
すっ飛ぶ勢いで降りてきて、
「二階奧の…あの人が意識を回復しました…!」
どよめく一同に弥生が振り返り

「何してるんだい、あんたらの仕事はあたしを見送る事じゃあないだろ」

一同はお辞儀をして慌ただしく動き出した。

療養所を後にする弥生にやいが

「…ひと目お会いしなくていいのですか?」

「これ以上、神奈の魂を縛る訳にはいかないさ、これでいい…
 ただ…神奈の今後の身の振りに関して…スミス先生に我が儘聞いて貰おうかな…」

「あのお方なら、きっと弥生さんの力になってくれます、信じる物は違えど
 素晴らしい教育者だと、私も思います」

弥生は色々を吹っ切るようにフッと笑って

「そうだね…」

呟いて、朝飯だけは何とか掻き込みつつ、輪西停車場から今度は札幌に戻った。
彼女たちは札幌までほぼずっと寝ていたが、何故か置き引きを試みる者が居ても
彼女たちから何一つモノを引きはがせない有様だった。
それは詞による盗難防止策だ。



北星女学校のスミス先生には神奈の境遇を話し、頼むだけ頼んでみた。
スミス先生もその件は承知したと言い、またそれぞれの日常に戻って…
そこからどのくらいか経った頃だ…

経済的にも割と安定してるし、弥生は数年前より馴染みだった天賞堂より
蓄音機も取り寄せていて、平円盤型レコードを洋の東西を問わず楽しんだりもしていた。

明治三十六年より、小西本店より発売された「チェリー手提暗函」という
一般向けカメラが発売され、映像記録というモノが少し身近になり始めていたが
弥生はこれには余り興味を示さずに居た。
ただ、撮られる事には割と気さくに応じていて、例の写真館も一・二年置きに
写真を撮り直していたし、嫌いではないようだったが彼女が写真に興味を
示す事はついぞなかった。

そしてその日は来る。



明治四十年頃の五月某日その夜、ひとしきり愛し合った後、
寝床にうつぶせになりながら弥生は短刀と金槌でイツノメに何かを彫ろうとしていた。

弥生の背中に被さりつつやいが

「何をされているのです?」

「うん…? イツノメがいいって言ってたんで彫らせて貰ってるんだが…
 むつかしいね、あたしには彫り物の才はないらしい」

下手くそながら、そこには「やいぬ またき」と彫りたかったのであろう
文字の苦心の跡が伺える。
やいは微笑みつつ、弥生の背中に口づけ

「貴女は本当に私の全てを愛そうとしてくれます…」

「当たり前だろ…もう、死ぬまで付き合って貰うよ」

「はい…」

いい空気が一瞬家の中を満たした所に…無慈悲にもそれはやってきた。

「… !! 「火禍」の気配だ…! 一つや二つじゃあない…
 結託して札幌を焼き尽くす気か… !?」

弥生が立ち上がり、やいも立ち上がる。
井戸水を頭から被り軽くみそぎをした後、急いで弥生は支度をし、やいはそれを手伝いつつ

「おやい…嫌な予感がする、最近はここらにも家も建ってきてるし木もある、
 延焼や防ぐ為に、ここに居てここいら近辺を守っておくれ!」

「はい…! 弥生さん、お一人で…」

「一つ一つの火禍はそうでもない…まぁヤバそうならあんたを呼ぶよ」

「判りました、お気を付けて…!」

やいが詞を唱え、弥生に守りを着ける、同時に弥生は身体強化を使い、
火禍に挑む準備を整えた。

「行ってくる」

「行ってらっしゃいませ」



町では火の手が上がり、火禍の火と風の扱いからその炎の勢いは西へ北へと
延焼を始めていた。

「火禍ってのは火元からの類焼させてからでないと判別が難しいのがいけない…」

弥生は急いで市街地へ向かいつつ(肉体強化のみの急行、自転車より速い)
早速見つけた火禍の一人に問答無用で斬りかかった。

速攻で祓われる火禍、しかし今は夜中…人々もまだ眠りから覚めやりきれぬ時間、
消火が追いつくかどうか…

弥生は舌打ちをしつつ、まだまだ居る火禍を探し、屋根の上を移動する。

大通り南の三条西五辺りから始まって一部大通りにまで火の手が及んだそこに
向かう途中、火禍が組織的に動いている事に弥生は気付いた。
詰まり今さっき問答無用に祓った奴が他の火禍どもに対する「合図」になっている!



少し話題を離れる、
火禍…読んで字の如く「火による禍」なのだが、人類の文明の源は
炎を使いこなすようになったから始まったと言っても過言ではない。
火禍というのは、その歩みと共に、落とした命などが怨霊化したり、
他の霊と合体したりして、魔と化したモノである。

火禍自体は火を付けたりする事は出来ない、ただ、火のある所に
延焼する元になるようなイタズラ…と言っていいのか、火の勢いを強めたりする
事は出来る、そして充分に育った火と、それになぶられる文明や人々…
それが火禍の喜びであった。

火禍自体はそう言った訳で火を元に文明や人の荒廃を楽しみたい、そして
それにも懲りず何度でも人類は再建する、そこをまた…といった一種の
サイクルでもある、火による悲劇は尽きまい、詰まり火禍はゼロにならない。

ただし、人間がどこかで諦めたりしてしまうと増長してしまうフシもある。
そしてより強くなった火禍は人間のチャレンジに対し嘲笑うかのように
火による禍を起こし続けるのだ。



その火禍がこの札幌で群体となって動いている?
京や江戸なんかは早くにこの段階を踏んだが、遂に札幌もか…弥生はそう思い
とにかく火禍を祓わない事には延焼や類焼が防げない、弥生は火禍を探しては
斬って行くが、それも「誘導である」事を意識していた、
一気に勝負に出るつもりか、面白い…と言う感じに。

大通り南、西何丁目か判らないが今正に類焼して燃え始めた家の屋根に弥生は来た。
火は既に幾分一丁目沿いに北に延焼しようとしている。

「来やがったな、お前を潰す為に方々から仲間の火禍を募ったぜ…」

「で…? あんた程度の火禍が二十三十居るからなんだって言うんだい」

数では意にも介さない…火禍は矢張りそうかと考え

「大凡の数まで掴んでやがると来たか…流石だが…これではどうかな?」

火禍のリーダーらしき一人が火で合図をすると、その火禍どもが合体して
大きな火柱となって弥生の前に立ちふさがった。

なるほど、確かに火先の真っ白部分なら直撃はヤバいかも知れない、と思ったが

「そうだねぇ、確かに威力や勢いは増したんだろうねェ」

弥生は詞を唱えつつ、巨大な火禍に挑み掛かる。
深く巨大な火禍の懐に入り込み、胴を切断する感じですぐさま振り返り、
足下まで袈裟斬りを二度お見舞いした。

火というモノは大体が上の方が高温、なるほど確かに頭や腕に相当する部分は
迂闊に手を出したら詞によるガードを越えてくるだろうし、
イツノメも溶けてダメになってしまうかも知れない、だから弥生は、
その半分から根元に掛けイツノメを冷却しつつ斬った。

その三断ちで全体の半分近くを祓った。

「…こんなモノは戦い方次第さ…詰まらないね、これが作戦?
 合体にも加わらず今のウチに延焼類焼に勤しもうってオカシラさん」

「ぐ…バレていたか…しかし…まだこれからだぜ?」

「そうかい」

まだまだ散っていた残りの火禍をさっきの半分になった大火禍に更に合体させ
最初の勢いの三分の二って程の状態に戻った。
弥生は鼻で笑った

「フン、こんなモンかい」

「ああ…こんなモンだ… た だ し … 行け、お前ら!」

大火禍は火柱として天高く細く巻き上がり、そして方角にして北西の空に舞い
市街地より離れて飛んでいった!

不思議に思いかけた弥生が「まさか」という顔をして、頭領火禍を睨む

「俺達がお前らの事を下調べの一つもナシに挑むとでも思ったか?
 早く行ってやりなよ…ハハハハ」

弥生は悔しさを滲ませつつ、物凄いスピードで北西へ向かう。

矢張りそいつらは、弥生の住み処…そしてやいを狙っていた。
十数年掛けてそれなりに森っぽくしたそこは今や燃え上がり…しかし
社や家屋は何とか耐えている…やいのチカラだ。

「おやい! そんな物はどうでもいい! お前だ、お前が生き残っておくれ!」

しかし、瞬間移動でも出来ない限りそこに近づくにつれ
終わって行く、尽きて行くやいの命しか弥生には感じられない。

そして弥生がその場に到着すると、大火禍の手に真っ黒に焼けた…それは……



子安新は夜中に緊急出動し、付近の住人の避難や消火の手伝いに部下も使って奔走していた。

そんな時、北西の琴似川の辺りで何か物凄い…爆発とも言えない光の大波が押し寄せる
ような感じで、しかも爆発のように衝撃波を伴って大通りまで達する。

頭領火禍が大通り南西一辺りの火の中に居て呆然としている、

「そ…そんな馬鹿な、あの女あんなチカラを…」

火禍の声は聞こえる。
子安新は一般の人に混じり聞こえるそれに反応し、頭領火禍の方を向いて言った。

「もしやアナタおやいさんをどうにかすれば十条さんは動揺して倒せるだろうとか
 思いましたか…ボッコな(酷い)事やってしまいましたなぁ…
 アナタも元は火の不始末で死んだ人だったわけでしょう、それにしては
 アナタは人というモノを忘れて仕舞ったようですなぁ、
 僕は知りませんよ、あかんでしょ、人の一生モンに手を出して
 意気消沈くらいで済む訳無いでしょ」



弥生はもう鬼神と化していた。
ただただ祓うべきは祓う、恨みの念を持ってこの世に塵一つ残さない
そういう祓いの気を轟々と焚き付けながら大通りまでひとっ飛びに飛んできた。

なんとか切っ先を躱(かわ)した頭領火禍だったが、
「やってはいけない事をやってしまったのだ」と言う事が理解できた。

地上の子安新は首を横に振り、自らの仕事に戻り勤しんだ。

もう既に我を忘れ本能的祓いと化した弥生は、創成川東にいる
消防隊の消火活動を手伝うかのように右腕を振るい、火の温度を下げ、
水を細かい氷にして消火を一気に進めさせた、そうすれば火禍はもっと弱る。

焦った頭領火禍は付近の浮遊霊でも地縛霊でも何でもかんでも
取り込んでとにかく鬼神・十条弥生に対抗しようとしたが、
見えないほどの動きと刀さばきにあっという間にそれらは引きはがされ成仏させられ
そして弥生は自らの手が焼ける事など意にも介さぬとばかりに火禍に掴みかかり、
ソイツを無限の無に返し始めた、勿論それは輪廻の和から外す事であり
魂にとって大変痛い事だった、火禍の命乞いと叫び、そして弥生の力が及ぶ事で
一般の人にも「はっきり見える」火禍の姿。
それは「敢えて」少しずつ削り散ってゆき、苦痛を持って無に帰すと言う罰を
下されている地獄の様相であった。

そして、頭領火禍が完全に無に帰した後、鬼神弥生の勢いはまだ止まらず、
事に乗じて悪さを働くような他の悪霊などにも及んでいった。



消火活動もだいぶ終りを見せた朝、抜け殻になった弥生がフラフラと
家のあった方向に帰って行った。

子安新は追おうとする南の人々を止めた。

「偲ばせてあげてください…貴方がたは人の心を持つ人でしょう」

しかし、その弥生の様子、どう見てももう弥生自体命が少ないようにしか見えない。

「多分あの人は死ぬでしょう、昨夜の事で一気にその命を燃やし尽くされてしまいました
 でも、それまでは、それまではどうか偲ばせてあげてください」

子安新も泣きたいのを我慢して部下も使い、南の人々が弥生を追う事を阻止した。

実際、弥生はもう殆ど死んでいた。
ただ、やいの元にだけは戻るという最後の思いで動いていた。

魂もこう言う時は「気絶」に近い状態で、今の弥生には意思も何もない。

祠のあった場所、家のあった場所、やいは何を思ったか最後の最後まで
弥生の財産や自分がしたためた記録を残した。
女同士で愛し合っても子供は生まれない、次代はない、ならば、生きた証を
残そうと思ったのだろうか、それももう判らない。

酷い亡骸となったやいに覆い被さるように弥生も倒れた、そしてその命は完全に尽きた。



数日もすると、その現場は何事もなかったかのように整地されていた。

時を少し巻き戻し、弥生最後の仕事から数時間後になる。

あれから警察や、十条家が駆けつけた所、やいと弥生の死体、そして
弥生が死んでも離さなかった野太刀「イツノメ」だけが残っており、
焼け残ったはずの弥生の財産や、やいのしたためた記録などはあらかた消えていた。

「あんなに言ったのに、付近にも協力は求めたのに…すんません、十条さん
 こんな事になってしまって…」

誰が持っていったのかは良くは判らないが…
弥生の兄がとにかく二人の遺体を…となったとき、父が頑としてアイヌの娘など
墓に入れる事は許さないと言って聞かなかった。
十条家の事業そのものはもう弥生の兄…睦月が継いでいたモノの、
まるで上皇にでも成って生きてる限りは強権を振るうかの如くの父親に睦月は
腹を立てたモノの、子安新がとりあえずやいはこちらで引取るから…とその場を納め、
そして強権を振るう弥生の父の力はまだ強く、弥生が十条家を離れていた痕跡など
跡形もなく消してしまったのだ。

そんな、すっかり整地も済んだ数日後に戻り、そこへ二人の婦人がやってきた。
一人は三十路を越えた、もう一人は日本人ではない欧米人の五十代ほどの婦人
もうお分かりの事と思うが、スミス先生と神奈である。
神奈はあれからスミス先生の引き抜きと推薦で北星女学校の事務員として働いていた。
住む場所も北の東側で、弥生とは活動が被らないようにして居た。

もう、終わった事とは言え、会えばいたずらに関係を刺激するかもしれないと
それはスミス先生に話を通した弥生自身も言っていた事だが、神奈も言われずとも
そう考えそうしたのだ。

ここも、またいつか札幌が大きく発展するときには再び開発されるのだろう、
それを承知で、二人はそこにライラックの苗木をそれぞれ植えた。
スミス先生は「青春の喜び」や「無邪気」を意味する白いライラックを
神奈は「初恋」を意味する紫のライラックを。
そしてそれぞれが弥生を偲んだ。

二人が復興を始めていた南を訪れたとき、写真屋の主人が声を掛けてきた。
写真屋の主人は神奈もスミス先生も知っていたし、若い頃弥生が神奈を
引き連れて走り回っていた事も良く知っていた人物であった。

「聞けば誰かしらないが姐さんのものは刀以外全部持ってかれたって話じゃないか
 せめてこれ…持ってってくれ…十条のお家にでも」

それは主にやいと弥生が写った写真六枚であるが、一番若いときに撮ったと思われる
それにはやいがなかった、神奈がそれに目を留めたとき主人がそれに気づき

「ああ…最初姐さんだけでいいかなってそこでやめようとしたら
 自分が一枚ならおやいちゃんも一枚か、一緒でなければだめだってね」

弥生らしい、ちょっと神奈に微笑みが戻り、有り難くその写真を受け取り、
十条家には一人で出向いた。



突然の訪問では在ったが、名乗れば兄の睦月は「ああ、弥生から良く話は」となり
暖かく迎え入れられるのだが、父は弥生とゆかりがあると言うだけで不機嫌であった。

とにかく家に上がって貰い、神奈は殆ど財産らしい財産も取られてしまった
弥生に対して写真屋さんの厚意で渡されたという写真を渡しに来たのだ。

「有り難う、だが…アレが居るからね…この一枚だけ、十条家としては受け取っておくよ」

神奈は悲しくなった、自分にとっては恋敵と言えなくもないやいだが、
ここまでアイヌだからと倦厭されるのは流石に可哀想だと思った。

そのうち、気付いた事があった。
この家には召使い以外女の気配がない、何となく奥さんとか居ないのかなと神奈が思うと
睦月が何かを察したか、話し始めた。

「私には妻がありました、弥生とも仲が良かったんだが、そう…その弥生が
 おやいちゃんを引取ると言いだした辺りから、父は狂ってしまった…」

十条も四條院も天野も別に純血主義ではない、血統主義的な部分はあるが、
それは「才能」の面で仕方のない部分があるそして血統主義的ではあるが、
「才能の面」がメインであって、男系男子でなければならないと言う物ではなかった。
その純血主義と血統主義が、ある日弥生の父の中でごっちゃになってしまった。

アイヌに対しての偏見だけならまだしも、嫁としてやって来た睦月の妻にまで
辛く当たり出し、果ては自分の妻にも。
睦月も親の事業を継いでいた事もあり、凡庸な二代目で終わらない為にも
猛烈な努力をしていた時期でもあり、ちょっとだけ妻に目を向けられなかった時期があった。

「ある日弥生に呼び出されてどうにかしてやれって言われて初めて母と妻の
 窮状を知ったよ…もう私にも誰を娶る資格はないし、あったとして
 あの父親が居る限り、それはない」

果ては自分の母や妻に無茶をさせまくった挙げ句病気にさせ死なせて尚
省みる事のない、すっかり権力の座に胡座をかく変わり果てた父。
ここにも、ちょっとしたコミュニケーション不足から永久の別れになってしまった
人が居たのだ、神奈は深く同情した。

「判りました…、では…おやいちゃんと二人の写真は私が個人的に…
 そして…たまにこちらへ弥生さんを偲びに来ていいですか?
 (笑って)大丈夫です、理不尽などもう慣れっこですよ」



睦月も睦月で、神奈の人生を思いやった。
そして、睦月は一つの事を心に決めた。



それから暫く、事業からも権力の座からも多少の手を使ってでも父を完全に追い出し隠居させ、
睦月は神奈と親交・親睦を深め、結婚するに至った。
そして男児が一人生まれ、大事に厳しく育て上げ、事業主の一人っ子と言う事で
戦争に取られる事もなかったはずなのに、志願し戦争に赴き、そして終戦後帰ってきた。

そして直ぐ…どうも出征前には付き合いがあったらしい娘さんと結婚し、
睦月の事業も継ぎつつ、生まれた子の一人、長男が二代弥生の父である。

神奈はついぞ「もう驚異はない」というのに、弥生とやいが二人で写った写真は
個人的な所有物として過ごし、神奈が天寿を全うしたときにはその弟に
遺品を渡そうと睦月はした物の、遠く離れお互い裕福とも言えないばかりに
姉に理不尽をさせてしまった事の懺悔など、三十路を越えた姉を幸せに
してくれた礼などで、それは全てそちらでと言う事になり、睦月は愛する妻の遺品の内
例えばミシンなど日常で使える物はそのまま家に置き、書状や本と言った物は
まとめて大事にしまい込んだ、その中に、弥生とやいの写真も入っていた事は睦月は知らず
以後数十年…



子安新はその後分離してからの十条家の戸籍を「やい抜き」で復活させようとする
弥生の父の強権に阻まれつつ、どうしようもなく飲んだ面もある物の、
やい側の戸籍…つまり「金町やい・改メ十條やい・義母:彌生」の部分だけは
守り通した、隠してでも「やっておきましたよ」とウソをついてでも守った。

そして弥生を失って火消し係の存在意義もなくなり、子安新は札幌近郊の
小さな警察署の署長に収まり、定年までを過ごし穏やかな一生を送った。
子安新も迂闊な事に弥生の父が亡くなった事、睦月と神奈が結婚し
弥生の名誉回復にあたりたがってたのは知っていつつ、ついつい
やいの戸籍の件とお骨の件を忘れて仕舞った。

結婚していたのかどうかはっきりしないのだが、付き合っていた女性などはあったようだ。



最後の事件からどのくらいか経っただろう、イツノメの中で弥生は目覚めた。

「おやい様は逝き付く手前で貴女を待つそうですよ」

「…あたしは…」

「もう私の声など聞こえない状態でしたね、おやい様を無残に殺されたのです
 確かに止められた事ではありませんでしたが」

「…そうだ、思いだした…あたしは…おやい…」

「悲しむのは、次を見つけてからにしてください、出来れば十条内がいいのですが
 私を持つべき祓いの力の特性が合えば本来その血は関係ないはずです、
 まぁ、私を持つべきかどうかは兎も角、この北方日本を広く活動できる程の
 祓いの力を持つ人…早々上手く居るとも思えないのですが…
 貴女の最後の使命はご自分で決めた事です、果たしてくださいね」

「ああ…そうだ、おやいを一生あたしの元に置くと決めたからには、
 あたしは他に次を見つけなくちゃだったのに、何となく日々を過ごしてしまった…
 とはいえ、永遠に探す事など出来ない…
 あたしのチカラで限界を作ってそこまでにとしておこう、二年に一度年を食う感じで…
 百年…百年内に探そう」

「そうですね、そのくらいあれば波乱の日本でも落ち着き順調に人も増え
 祓いの才能も出てくるかも知れません、しかしどう探します?」

「闇雲に探し回ってもどうしようもないが…それもやってみるしかないか…
 先ずはあたしが見える事が第一条件と言う事になるが…
 何か心的衝撃でもあればその波動は伝わるんだけどね」

「とりあえず、いつでもここにはお戻りください」

「ああ、行ってくるよ」

イツノメの正式な持ち手である弥生の霊は、だから十条の家が一族の誰の物であろうと
イツノメにだけは居場所が約束されていた、それが、二代弥生卒業試験に繋がる。

初代弥生は、方々で少しくらいなら…と言う才能くらいは見つけて育てては見る物の
やはり広域でとなると難しい…その間第一次・第二次大戦を挟み、日本も変わって行き
神奈の一生を見送った後(自分が成仏できていないなど知られてはならないので
 隠れて見送ったが)兄の睦月までは見送り、こっちは対面もした)

『そうだ、おやいちゃんを十条に戻す事をすっかり忘れていたよ、スマン弥生』

『いいよ兄さん、神奈を幸せにしてくれて有り難う、それがあんたで良かったよ
 おやいについては…いつか誰かが見つけてくれるかも知れない、その縁を
 あたしは信じよう、その前にあたしは祓いの次を見つけなくちゃいけないんだ』

『(呆れたように)お前はいつもそうだ、そして言いだしたら聞かないんだ
 だがお前はやり遂げるよ、そう言う奴だったからな』

『ああ』

『じゃあな』

そして、初代は何十年も探し、待ち続け、やっと「これは」と思った波動は、
酷く打ちひしがれた傷ついた心の波動だった、そしてその主は、自分と同じ名を持つ
十条の娘だったのだ。

「やれやれ、十条ってのはどうしてこうなっちまうんだろうね、
 同性愛者じゃないとならぬという訳でもないだろうに、キレイにその筋だ…
 もう少し様子を見よう、今のは波動が悪すぎる…」

そして、死んでから約90年の年月を経て、イツノメの外では約八十歳の外見に
なっていた初代はある日不良として悶々とチカラをくすぶらせていた二代目候補に
声を掛けたのだ、それはCASE:FOURの通りだ。

一年の後卒業試験に「残り十年分」の力を解放し大悪霊の祓いに協力はしつつ
野太刀「イツノメ」も二代目も正式に継がせた初代弥生だったが、成仏の途中

「そういや、色々伝え忘れちまった…ま、いつか自分で気付くだろうさ…」

「お待ちしておりましたよ、やっぱりこのくらいは間も開くモノですね」

「やぁおやい、待たせたね、色々教え損なった部分もあるがもういいや、
 あの子は察しもいいしいつか色々気付くだろ、それより早くあんたと逝きたいよ」

「そうですね、参りましょう」

初代の意思はここに完全に昇華された。
イツノメは見送っていた「歴代の中では、なかなかいい死に方を出来た方ですよ」と。


第五幕  閉



Case:Eight 登場人物その4:明治四十年頃の彼女達と、彌生の兄・睦月

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