L'hallucination 〜アルシナシオン〜

CASE:Sixteen

第五幕


「先生? 筆が止まってますよ?」

四條院本家に寄った後、実家に関西土産を置きつつまた巌の本を借り
(因みに行きは行きで関東土産と共に借りていた分を返した)
写本をしていた時に考え事してしまっていた八千代。

「まだ振り返るには短い人生と思っていましたが、周りで色んな事が変わって行きます、
 ふとその中にあって思わず色々反省したりしてしまいました」

いつもの仕草で八千代がため息をつく。

「私は先生とは二年ほどでしょうか、考えて見ればそれ以前の先生の繋がりを何も知りませんけど、
 でも私にとっては先生は先生ですよ」

「そういえばそうでした、罔象さんも桜さんも名前だけ、とと様もはは様も頼も甲も話しだけでしたねぇ…
 もう少しちゃんと色々立て直しここでの生活の基礎を…
 …あ!」

話の途中で八千代が素っ頓狂な声を上げる、ビックリするしそのたびに
「この人はどこか残念でしょうが無いヒトだなぁ」と千代は思うももうそろそろ慣れてきた。
八千代は座ったままくるっと千代を向き平伏し

「そういえばちゃんとお返事戴いてませんでした、私ここに住んで良いのでしょうか」

何を言い出すかと思えば、千代は苦笑いの中にも妙に律儀というか筋を通したがる八千代に
何やら温かい気持ちを抱いて微笑み

「もう半ば先生の「巣」じゃないですかw 何を今更ですよw」

「これも私の悪い癖で…思い立ったが吉日とついつい先走ってしまいます」

「…きっと、周りの皆さんも思っていることでしょうね、でも、それが先生の人柄で
 魅力なのだと…思います」

「魅力…ですかねぇ…でも、許されると言うことに甘えてはいけないと思うんですよ、
 私はここを基点に、住まいにしていいでしょうかねぇ?」

そうなりがちなのだけど、なし崩しは良くない、そんな八千代の心が千代は好きだと思った。

「こちらこそこれからも色々教えを賜りませんとなりません、どうか宜しくお願いします」

いつもなら「好きにすればいいんですよ」とかそう言うのだろうが、
きちっと否応を付けなければ八千代の心は納得しないのだろう、そう思い、千代も頭を下げた。



二十四年続いた天文も変わり少し、弘治(こうじ)三年(1557年)
全国的には図版の塗り変わるような事態もありつつ、甲州も細かくは色々ありつつ
甲州その物としては割と平定だったこともあり八千代には悪霊や魔の祓いと言った声は掛からなかった。

「これは…貴方様の体の中にですね…小さな虫が一杯住み着いていますよ」

「虫? 虫だって? どのような?」

八千代に祓いの声が掛かるようには成って居たが、丁度悪霊や魔の祓いがあって認められた
四條院や天野と同族の系譜だというのに十条はその方面では無名であった事が災いし、
大体八千代は「病魔の祓い」に借り出された。

まぁ、それも仕事ではある…と赴けば、祈祷によりないはずの右手が現れ病魔を探り退治する、
すっかり八千代は医療方面での本来の祓いとしてはイレギュラーな部分で頼られてしまった。
土地の天野や四條院には平謝りされる物の、二家が謝るのは筋では無い、
矢張り何か機会に恵まれてそこで初めて自分の力も示せるだろうとは思いつつも
重ねて言うが甲斐やその周辺としては割と平定な時期であるだけに二家の仕事を奪う訳にも行かないのだ。
それに怪我や外見で判りやすい病気ならいざ知らず、体の中まで深く探るには
二家の祓いは余り向いていない。

八千代は少し席を外し、どこかへ行ったかと思えば川で魚でも捕ってきたのだろう。
そして八千代は「病魔に冒された」者の側で何をするかと思えば短刀でそれを捌き出す。

「これですよ」

その身や臓腑には確かにその身に取り憑く小さな生き物がある。

「川魚で火を通しきらず、ましてや生で食すなどあり得ません!
 良いですか? 今日は私がその体の中を掃除しましょう、ですが食習慣に関することで
 毎度毎度呼ばれていたのでは堪った物ではありません、「特に」川魚を生で食べることは固く禁じます!」

「えー」

「何ですか、その言い様は、死にたいのですか?
 これらは永きに渡りあなた様の臓腑の中で貴方様の生き血を吸いその臓腑の働きすらも弱めます
 ですが何かを食べなければ生きては行けません、食べるなとは申しませんよ、
 「充分に火を通して」「生など以ての外で」食を改めてください!」

「釣ったのをその場でかぶりつくから美味いのに」

「はい、そうでしょう、ですが火はきちんと通してください、怪しいと思ったら
 その部分は除いて食べるのもいいでしょう、いいですね?」

釣りが趣味の領主、狩りが趣味の領主、庄屋や商人、誰でもお構いなしに八千代は
「そう何度も面倒見切れない」と言い、食生活や生活習慣を改めるよう親告し
そしてそれは後の「公衆衛生」に基づいていたので言うことを聞くウチは確かに効力もある。
八千代はそう言う意味では認められたのだが、何かこれも八千代の纏う雰囲気や物腰によるものなのだろう
「なんかあの人になら怒られたい」という謎の嗜好をくすぐり、そして何より身に染みついた習慣など
そうそう変えられるモノでもない、結局はまた呼ばれ、八千代も「報酬のある仕事」は
ほぼこれ一つに成って居たので何だかんだ言いつつ面倒見良く、でも釘刺しも忘れずして行く。
以下繰り返しである。

流石に八千代も釘を刺していたこともあり「既に死んでしまったモノばかりはどうしようもない」
と言うことも周知していたし、その知識も何という本の何それと、今風に言えば「ソース付き」で
病気などに対する知識もあるのですっかり医者であった。

この頃日本でも西洋式の病院がポルトガル人医師により創建されたりして居たのだが、
まだまだ、「祈祷(祓い)」という概念も強かった。



「些か不本意です…」

八千代が自分の机に半ば突っ伏す形で落ち込んだ。

「先生もお強いのですから生きた人を相手に出来るなら良いのでしょうけどね」

十五(十三〜四)になって少し大人の雰囲気もでてきた千代が声を掛けるも

「…それは流石に…」

「では仕方がないですよね…甲州の外から応援が掛かった時に頑張って戴くしか」

「甲斐在住の祓いの二家がまた結構使い手なんですよね、それ自体は喜ばしいのですが…」

「先生がここに住むと誓ったことですよ」

「はい、そうです、みっともない愚痴です…見込みが甘う御座居ました、
 実入りもこれでは余り戴けないですし…」

そこで千代が閃いた。

「先生、知は力…周囲の人に手習い(読み書き指導)など如何です?
 祓いではありませんしお金としては少なくとも作物や付近の協力は得られやすくなりますよ?」

「手習いですか…それに知は力…今でもそれに揺らぎはありません
 そして確かに…直接言葉や千代さんへ言伝というのではなく字で意志を伝え合うことは
 これから先、あった方が良いですねぇ」

「とりあえず、それで行きましょう」

「そうですね…、種や苗木の一つでもあればこちらで作る物も増やせますし…」

今ひとつノリノリには成れないモノの、背に腹は替えられない。



八千代はまず周囲の大人達から説き伏せていった。
幾ら腕が良くても商才がなければ物は売れないと言うように、上からお達しが来ても
一つ一つその意味をかみ砕くことが出来、主張すべきは主張することを説いた。
主張が一揆という暴動ではなく、自分たちの利を考え書状も認められるよう説いた。

甲斐という土地は果樹栽培などに向いていたこともあり、鎌倉時代には
葡萄の生産などをしていた土地でもあり、名産品として扱われていた。
さらに八千代が居を構えた地方は国境(くにざかい)も近いとあってたびたび戦の余波に見舞われ
乱取りの被害もある場所だった。

天候ばかりは仕方ないが、農耕に関する知識だけはある八千代は作物に関する
病気や虫害などに関するものも惜しみなく指導し、とれた作物もただ納めるのでは無く
きっちりお上と話し合い、乱取り対策なども絡め保存や加工品といった物に変えておき
いざというときに使えるよう保存を奨励したり、何しろ最初の何年かは言ってみれば
ボランティアのような形でとにかく誰もが知識と読み書きが出来、
代表に全てを任せるのでは無く個人個人が考え物言うことにより地域をより豊かに
多少のイレギュラーな乱取りなどではびくともしないよう、そして閑農期にも、いや
閑農期にこそ知識や算術と言ったもの+読み書きと言ったスキルを身につけられるように説いた。

確かにモノを考え物申せるようにもなれば「どうせ読み書きなんて出来ないだろうから」と
舐められることも少なくなるだろう、読み書きが出来ると言うことは大きな力だろう。
そんな訳で時間の合間を縫って少しずつ八千代は先ずやる気のある大人から、
そして将来の大きな器になるように、と子供達へ移って行く。

と言う訳で御大層な難しい字や名前などひねって考えるまでもなく、看板にはひらがなで
「てならい」
と書くことになる。
本来初等教育だとカタカナが先になるのだが、そこだけは譲れなかった八千代であった。



弘治年間が四年目で替わることとなったこともありそれもまた手習いの勧めに使い
永禄元年(1558年)、八千代は「しょうがない患者さん」周りと割と離れた地方の祓い手助けに
参じつつも「てならいさん」の生活を始め、子供達からは千代がそう呼ぶので「先生」
大人からは「てならいさん」という呼称が早くも浸透しつつあった。
ただし裏ではその何処をどうしたらそう育つという胸を差して村からよく見える「ふじさん」とも言われた。

目の回るような忙しさでありつつ、歴代とは違う自分なりの「三代目のあり方」のようなモノも
八千代は感じて「まぁこれはこれでいいかな」と思えてきた。

「御免、「てならい」を始めたのか、うん、良いではないか」

「小畠様、まぁまぁ、このようなところまでどうされました?」

「いや、近々松代の方へ行くことになってな、そちらに移れば忙しゅうなるじゃろうから
 ちょいと顔見せにでもな」

「松代…お隣信濃(現長野)でも越後(新潟)に近いではありませんか」

「うむ、まぁまだ拠点も出来てなくてな、まだもう少し先だ」

「小畠様ももういいお年なのですから、と、言っても無駄なのでしょうね」

「ハハハ、そういうモンじゃ、にしても手習いとは、さてはお主どこぞの三ツ者なのではあるまいな?」

「止してください、歩き巫女なども育成はしておりませんよ」

「先に言われたわ、ハハハ、まぁそれは置いてじゃ
 病の祓いと言うことは八千代殿は「あれ」は看たか?」

「…はい、あれは難しゅう御座います」

「八千代殿でもか」

「…はい、一時的にというなら何とでもなります、でも恒久的にとなりますと
 祓いの領分では無く、今の医療でも如何ともし難いでしょう」

「そうか…甲斐は中々に良い土地であるのに、何とも勿体ない事だ」

「ただ…祓いの間でも一部問題にはなっておりまして…少しずつやりとりはしているのです、
 判っていることはどうやら甲斐だけの問題では無いということですね、ただ、甲斐が
 問題として頭一つ抜けていることも確かなようで」

真剣な会話であろう筈なのに、小畠と呼ばれた老年の武士は軽く笑い

「八千代殿は矢張り三ツ者なのか?」



「忍びではありませんがまぁ祓いにも網の目はあります…でも祓いは基本院のために動きます
 政治としてでは無く、その代が末永く続くために、この日本全国のためであって
 一国の主のために働くのではありません」

「それはそれで思惑というモノであろう?」

「そうですね、そういう意味では…ですが祓いは戦には組みしませんよ」

「うむ、それは心得て居る」

「…甲斐に著しい病については例外のようなモノです…策を講じるのであればそれは
 どこと限った話しでは無く全国的な策が必要になりましょう
 とにかく詳しいことを探るのには余りに時間も余裕も足りません、そしてそれは
 祓いの本分でもありません、どうか、これに関しましては…もっと医療も何も
 進んだ先への宿題とさせて置いてください」

「そんな大それた話しなのか」

「…盆地で水を貯めやすい地域で水に触れやすい…小作の方々に顕著です、
 そんなことを抜本的な対策も整わぬまま公表など出来ましょうか」

「…できんなぁ…この辺りはやや高地で田も少なく水はけも良い、この辺りには余り見ないか?」

「はい、やはりある程度水の流れも穏やかで、水を貯めやすい場所に多く御座いますね
 これも矢張り虫と言いますか…それが最終的に体に止まることは判っております、
 ですがあの虫が何処で何を辿り何かを仮宿主にしてから人に止まらず…
 牛や犬猫…鼠にも遷ります、それは件の流れのあっても緩やかな盆地でも主に低地の
 水に触れることによりそれは肌から体内に入り込むようです」

「真ん中がワカラン事には確かに対処もしようがない、そして米農家に田を作るなとも言えない
 開拓した土地を捨てることも許されない、どうしようもない、か」

「はい…片手間に出来ることでもなく、増して全くの自腹でそれを完遂することは
 不可能に御座います、私も片手間とは言え悔しく思います、ですがそれが生業だというならともかく
 今住んでいるこの地方は免れていますしわたくしも生きて暮らして行かねばなりません」

「うん、それは尤もじゃ、しかし何とも聞いてしまったからには殿に何か物申してみるべきか」

「対策のないまま「どうにかして欲しい」ではお殿様も納得なさらないでしょう」

「そうだなぁ、仕方ない、飲み込んでおこう、では…」

と言って小畠が発とうとしたところ

「あ、小畠様、お土産をどうぞ」

八千代が差し出した瓢箪、小畠はそれを受け取りつつ

「酒か?」

「はい、葡萄酒をといってまだそれほど長く熟成させた訳では無いので出来は今ひとつでしょうが」

「ほうほう、これはいい土産だ、かっくらって聞いたことは頭の隅に流してしまおう」

「…そうしてください」

八千代が頭を平伏し下げると千代もすっ飛んできて同じく頭を下げる。
小畠は優しく微笑んで

「千代は幸せ者だぞ、他の孤児(みなしご)など歩き巫女と言う名のくノ一として
 己の意志とは無関係に育て上げられ全国に散らされるのだからな」

千代はその言葉を重く受け止めて小畠の顔を見上げ、もう一度頭を下げた。
そこへ八千代がいつもの素っ頓狂さで「そうそう!」と声を上げる

「小畠様、信濃と言えば蕎麦の産地、蕎麦を出来ましたら食べてください、
 お米は玄米が理想ですが、玄米ですと便通が悪くなる場合もあります、あれを燃やすには
 体力も必要に御座いますから、無理にとは申しません、その場合ぬか漬けの葉や根菜と共に
 七分突きなどのお米、そして大豆は忘れずに食べてくださいね」

場を締めたつもりが八千代に全部持って行かれ小畠は豪快に笑い

「貴殿には敵わん、判って居る、いつまでも若くないと言うことも、分を弁えると言うこともな」

「健康は何よりの宝ですよ」

「そうじゃな、でなければ武勲を立てるも何も無いな」

「そうですよ」



その夜、いつものように豪快な食事と共にひと息ついた後、二人で後片付けなどをしながら
千代が何気に八千代に聞いてきた。

「歩き巫女とか三ツ者ってなんでしょう? 忍びはまぁ判りますが…」

「歩き巫女は元々諏訪神社…建御名方神(タケミナカタ)を祀る神社の何というのでしょうねぇ、
 キリスト教で言うなら宣教師的なモノなのですが中には祓いを…系統は違いますが
 地方地方でむしろ今の私に近いことをしつつ全国を回る巫女…だったのですが、
 小畠様の言うのは「その形式をなぞらえた」隠密の訓練を受けた巫女のような女忍者…
 くノ一というあれですね、大きく違うのは隠密ですから
 地方地方の実力者などに取り入るのにまぁ「女」を武器に相手をたらし込むなどですねぇ…」

千代がショックを受けた。

「私…もし一人で生きることに拘っていたらそうなっていたかも…と言うことですか?」

「まだ甲州でも本格的には動いておりませんが諜報を旨とした集団と三ツ者といってですね
 詰まりそれに「歩き巫女」としての役目も果たしつつ…諜報を行うために…
 これから本格化するのでしょうね、因みに諏訪も今は殿様(武田信玄)の支配領域ですし」

「あの…先生はそれを知っていてここに住むと…?」

「さぁ、どうでしょうね…w と、いつもならはぐらかしますが、
 この際はっきり言いますね、その通りです、命ばかりは留めさせ後は知らない
 などと言うことは出来ませんでした、実際集め始められては居ますしね」

「先生もここに来て苦労されたようですね」

「しましたよぉ、確かにやっている事の一部は重なりますしねぇ
 でも男性を惑わす術なんて知りませんし、知りたくもないですし、でもそんな風に見られるし
 同じ巫女姿でも四條院は知られていますし天野も一緒が多いですからいいとして、
 もう何度押し倒されそうになった事か」

「どう切り抜けたんですか?」

「何か患っている方ならそっちへ話しをずらすですとか、まぁ色々と…どうしてもとなったら」

八千代は稜威雌を握り千代の眼前にかざした、千代が冷やっとした。
一瞬だけ八千代はそこに殺気を込めたようだったからだ。

「…というようにですね、ええ、部屋に何人潜んでいようと一太刀のもとに斬り捨てますよ、と」

「…無茶苦茶です、先生だからこそと言いますか…」

「でも私殿方には興味ありませんので、ええ、申し訳なく思いつつも遠慮なく」

そこで千代がふと

「…あの、ひょっとして」

「はい?」

千代は顔を真っ赤にしながら

「…いえ…」

八千代がそんな千代に優しく微笑み

「はい、私は女好きの女ですよ、誰からどう言われようと、それが生まれ持った私ですから」

千代が益々赤くなって俯いた。

「…大丈夫、見境はありますからw」

八千代の言葉に千代は赤く俯きつつも、でもちょっとそれならそれで思った事もあったので

「あの…それでは女の方とは…?」

「はい、ほぼ私の師匠二人とですけれど、他はまぁ一人になった頃に方々の応援に入った先で
 ええ、ちょっと気のあった方などとは…私は決して清廉潔白ではありませんよ
 汚れています、汚れ方が世間様とはズレているだけで」

千代は俯いたまま何やら考えて居るようだった、八千代はその様子に

「私にとって千代さんは命を拾ったからには保護しなければならぬ、という義侠のようなモノだけの
 人ではありませんよ、そして、といってみだりに汚してもならない、貴女が強く逞しく生きる事を
 望み、それを楽しみに暮らしています、大切な人なのです」

千代が決まり悪そうに顔を上げ

「聞きたい事を先に答えられてしまいました」

「判りますよ、だって女好きの女と暮らしてると言うのに自分は何故? と考えるのも自然でしょう」

「先生にとって私は大切ですか?」

「はい」

きっぱりと八千代は笑顔で即答した。
されたらされたでなんだかまた千代は言葉に詰まる、いちいち顔も赤らむ。

「強くて可愛いですね、千代さんは、でも私はみだりに貴女に必要以上の間を迫ったりはしませんよ」

これで手打、これで空気がなんとなく流れてそれで終わる、少し距離を縮めるくらいで丁度いい、
八千代はそこで終了のつもりで途中だった作業を続けようとする。

「それは…何故でしょう」

流石にそこを「何故」と言われるとは思っていなかった八千代は面食らった。
今度は八千代が少し俯いて言いにくいと言う空気を醸し出す。
以前に罔象や桜に言われた事も重なり急に何か意識してしまったというか。

「先生も可愛いですよw」

「からかうのは止してください、意識しないと言えば嘘になるのですから」

「御免なさい、でも…うん…私の事は負い目や義侠抜きでお願いします、
 確かに最初はビックリしました、怖いとさえ思いました。
 …まだそう長い付き合いでもありませんけど…毎日…触れあう先生の柔らかさも
 時折見せる鬼気迫る先生も、どれも先生なんだと受け止められます。
 何て言うんでしょう…その…どう転ぶかはそれはそれとして、私も先生が好きです」

八千代の胸に甘酸っぱい思いが一斉に広がる。
意識しないようにしていた思いが一斉に広がる。
好きという言葉で濁したくもなくなってきた、でも、まだそれには少し早いか…と思いつつも

「ああ、抱いてしまいたいほどに愛しい」

つい、口から漏らしてしまった。
あ、折角一歩近寄ったのになんて事を! と自分の失態に自らの頭を叩く八千代。

「あの…いいんですけど…ちょっと怖い…」

もうダメだ。



「そうか、とうとうか」

「はいぃ…あの子は時々私を惑わします、もっと慎重にと思ったのですが…」

丘の上の杜、罔象と桜の二人に成って居た。
茶戸が亡くなった時にも連絡はくれて弔いには来ていた。
割と鎮まった土地とは言え祓いをしながらの一生にしては茶戸は長生きだったので
悲しみと言うよりは心からお疲れ様、という別れだった事もあり何の遺憾もなくその前後も過ごせた。

そして今、とうとう一線を越えた事を二人にいつもの癖を発揮しながら語った八千代。

「良い事ではありませんか、千代さん、会ってみたいですね」

桜の言葉もだいぶ戻ってきていて…とはいえ最前線に戻れるほどには無い。
罔象も同様でこの土地の祓いを継ぐと言うくらいには動ける。

「会ってみたいな、いつか連れてきなよ」

「そうですねぇ…甲州から出た事もないと言いますし」

「多くの人々はそうですよ、私達のように歩みを早めたり跳んだりは出来ませんからね」

「それもそうですねぇ」

「時に八千代、ちょくちょく顔出してくれるのは嬉しいけど、折角いい感じになって
 それを伝えにここへわざわざ?」

罔象に言われると、思い出した! というように

「ああ…、そうでした、桜の苗木を頂けないかと思いまして」

「あの桜か、「守弓桜」って呼んでる、細かい種類は判らないけど八重桜で守弓、
 八千代の歴代をどことなく象徴してるかなってね」

「あのように美しく逞しく在れば良いのですが…」

「それは八千代しだいさ」

そうして、千代と八千代の家の前には弓が植えた桜の苗木が植えられる事となった。



年を重ね、永禄三年(1560年)春、やや大きくなって桜の花も咲いた頃。
本日の手習いの終了、子供達を送り出す八千代と千代の前に、子供達の流れとは逆に
つまり向かってくる若者の姿が。

年の頃は二十歳辺り、細身ながらそこそこ鍛えた体、その左目はしかし刀傷でつぶれているようだ。

「あね様、お久しぶりです、富士の眺めが素晴らしいですね」

そう、何か見覚えがあるような…と霞みがかった記憶を探る内に八千代がその一言で気付く。

「甲! 甲ではありませんか、どうしたんです!? それにその…」

成長した弟、甲は母似の顔に父譲りの朗らかな笑いで

「あね様は痛みに屈する余裕などなかったと言いましたが、厳しかったですね」

千代もそれが八千代の肉親だという事は判った、とりあえず中に上がって貰って話を聞く事に。



「あね様、ここ数年ご無沙汰で御座いました。
 手紙は届き千代さんという助手がいる事は知っておりましたが、お初にお目に掛かります」

千代も挨拶を返し頭を下げるのだが、なるほど八千代の肉親だけあって何処か似ている。
先生が男性だったらこんな感じなのかな、ともちょっと思った千代だった。
すっかり大人になっていた甲、確かに八千代はもう実家に直接の行き来はして居らず、
自分の事で特に最近は手一杯だった事もあり、実家には寄っていなかった。

「まぁまぁ…子供の頃から少々腕白ではありましたが、武士然としていますね」

「いえ…故郷の辺りはもう大混乱も間違いなしの状態です…
 幸い父は相手を知るためにも方策を練るためにもと兵法なども所蔵しています、
 若い頃にそういう本ばかり読んで…しかし、敵を欺いたり出し抜いたりと後ろ向きだなと
 思っていたんです、でも実際周辺の治安も悪くなりますと少しずつ「なるほど」と思えるようになり
 とりあえず役に立つかはともかく立ちたかったので家名を一時置いて
 今はただの「甲」として現場で作戦を練ったり実行していたりします」

「とと様もはは様も心配でしょうに」

「試験の後片腕になって帰って来たあね様がそれを言いますか」

「でも…私には祓いがあります」

「そう、俺に祓いはない、だからまぁ、母はひっくり返る勢いでしたが、
 説きましたよ、争いはできる限り避けるのが本分、しかし戦わねばならぬ時があります、
 その「せねばならぬ」戦いを最小の被害で目的を達する事とそのための知恵、必要です。
 それで今まぁ下っ端なのですが侍身分に一応…」

「そうですね、必要だと思います、偉いですね、甲はそれでそんなになるまで」

「あね様が慣れない左手でも慣れてみせると言い放ち実家でもそう過ごしました、
 実際祓いの時も相手の力量に合わせ祓いの手は本当の「奥の手」であると聞きました
 増して人でない、悪霊や魔を祓うなど矢張りあね様は凄いのだと改めて思います」

八千代は癖を発揮させつつため息交じりに

「立派になりました、本当に…頼はどうしてます?」

「頼ねえは父の後を継ぐべく猛勉強の日々です、頼ねえは建設や算術から周辺の土地の
 治水や敢えて街道を整理して「通り道」にするようにしています。
 戦いの舞台にはならないように」

「頼は頼で戦っているのですね、私だけかも知れません、のどかなところでのほほんとしているのは」

「ああそれでですね…俺は丁度こっちを通過するという祓いの人に手伝って貰って
 ここへあね様への援軍要請の書状を…」

といって甲が荷物よりそれを出し、八千代の方へ向きを直して差し出しながら続ける

「托しても良かったんですけどね…第三者に渡すなら俺からの方が…となりまして」

千代は八千代の右腕側にいて、日常の何気ないフォローを直ぐ出来るようにしていた。
ほんわかしているようで独立心が強い八千代がそれを受け止める人、
千代はあくまで「八千代の右腕代わり」であって八千代はちゃんと左手でその役目を果たしている。
文面から八千代の「家族に類する人」なんだろうな、とは思っていたが、それ以上のようだ。
罔象と桜という二人を知っているからそれをおかしい事とは思わない。
八千代にとって普段の右手の代わりになる人、それがこの人か、と思った。
八千代は書状を一通り読んで

「これは…まことの事に御座いますか?」

「言伝を受けたのは俺では無いので真偽までは測りかねますが、確かに尾張の者からです、
 そしてもしそれが真筆であるとすれば…」

「尾張の殿様直々と言う事になりますね…」

「正直尾張は敵です、ですが祓いの依頼に国境など無しという鉄則は守らねばなりません
 あね様も聞いたからには黙っていられないでしょうし、結果的に尾張に利する形となろうとも
 我々もそれは承知に御座います」

甲が頭を下げる。
正直に言えば複雑だ、愛する家族を脅かす…しかも結構な野心家と聞く尾張の殿様、
しかし祓いの使命は果たさねばならない、何故直接自分を知るに至ったかは判らないけれど
それこそ忍びの者を使ったのかも知れない。

「判りました…丁度良い…千代さん、私の家族に紹介しがてらこちらの国まで一緒にどうですか?」

「えっ? でも、ここはどうするんです?」

「近所の人にお頼みしましょう」

「はい…先生がそう仰るのであるなら…、お話には聞いておりました甲様もお話から
 数年間が開いているようですね、こんな立派な殿方だなんて思っても居ませんでした」

甲はまたその母似の顔で父のように笑いながら

「あね様の中ではつい先ほどまで俺は勉強より近所や野山を走り回る腕白でしたからね」

ちょっとばつの悪い八千代だったが、千代は

「それであの…先生の仕事はお一人で参じるとして、私は先生のご実家に?」

「そのつもりですが、なにかあります?」

「…私が行ってお邪魔にならないかと…」

その言葉に甲も八千代もピンときた、千代は結構人の心の機微を読むのが上手いなと思った。

「頼ねえは…確かにあね様っ子でしたし、今でも根はそうだと思います。
 ですが流石にいい大人、思ったとして思った事はきっちり口になさると思いますよ
 そう…どんな反応をするのかまでは俺にも判りませんが…落としどころは見つかると思います」

「そ…そうですか…」

「頼は…甘えん坊という訳ではなく独立心も旺盛です、大丈夫」

「そこは俺も間違いないと言っておきます、ただあね様の事になると少し思いが強くなると言うか」

「…やはりこう、試験から帰った時には片腕であった事とか…左手一本で普段は生活するにしても
 その始めで色々おぼつかない有様を難しい年頃の辺りに見せてしまった事でしょうかねぇ」

八千代のいつもの癖で呟く。

「あね様は少々自分の価値を低く見積もりすぎだとは思いますね、謙虚にしても」

「…そうは申しましてもネェ、自分に価値があるなんて、それこそ祓いなど天職に纏わる事でしたら
 多少は…ですけれど、それ以外はただの育ちすぎた女ですからねぇ」

「先生は、私にとってどんな面でも素晴らしい先生ですよ」

千代からそう言われて、ちょっと赤らむ八千代だが、そこは甲も居る手前

「まぁ…とにかく、準備をして発ちましょう、道々留守のお願いなどしなければなりませんし」


第五幕  閉


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