L'hallucination 〜アルシナシオン〜

CASE:Fourteen

第七幕



春が過ぎ、夏が過ぎ、秋が過ぎ、冬が過ぎ、そしてまた春が来る。

つい二年ほど前なら当たり前に過ごしていただろう、
しかしもうそれは一日、日一日と噛みしめなければならない物になっていた。

弓は益々やせ衰え、もう流石に方々の応援などには出られない状態になっていた。
四條院本家の祓い中心にまでなっていた摂津がその代わりを常に手配する形となった。

因みに四條院本家はその血筋さえ通っていれば男系であろうと女系であろうと
何番目の子であろうと、果ては傍系からの養子だとしても構わないという気風であるので
同性愛者の摂津でも祓い頭は良く勤まったし、実際摂津はよく働いていた。

弓を教訓に体調管理をするようになって、また祓いの家系による乳幼児死亡率低下のために尽力して、
一気に数は増やせない物の四條院と天野の祓いはなるべくそれぞれの世代で安定するように努め始めたし、
実際それは上手く回っていた、弓の犠牲を絶対無駄にはしない、強い摂津の意思であった。

この頃になるとすでに麓の村にも隠しきれる状態では無く、
その誰もが弓を労って代わりに出来る事があればと申し出たが、それはありがたく受け止めつつ
「もうどうしてもそうしなければ」という時に改めてお願いする、と言う事にした。
できる限り二人だけの生活を続けたかった。



ある年が明けて立春も過ぎた夜、薄明かりには囲炉裏だけで無く、ちゃんと灯りも
用意されるようになった部屋で弓が書き物をして居た。

もうおぼつかない筆取りにはなっているが、まだ書けては居る。

あれ程健啖だった弓の食欲の落ち込み具合に守も流石に覚悟を決めかけていて
弓自身もそれを悟ったようであった。

「この土地が穢れて危機に晒されていたって時…早く打開しなくちゃって思っていたのに
 最近なんだかあの頃の事を良く思い出すよ」

守の漏らしに弓は書き物を続けながら

「わたくしも…健康っていい物ですね…そして危機感を持続しなければならなかった、とはいえ
 緩んでしまうと本当に…あの頃は色んな物がぎらぎらとしていた気がします」

「平和が一番の筈なのにね」

「本当に…おかしなものです…」

いつもなら書状を書き留めた後には呼ばれるのに、呼ばれなかった。
「これは本当に十条弓の個人的な物だから」とは言われていたが。

「…大切な手紙? 師匠さんに? フィミカ様に?」

「フィミカ様に手紙を届ける事など出来るのなら、それもしたかったですね…
 わたくしカラビト茸のときには気絶しておりましたし…会ってもう一度お話もしたかった
 …けれど、本来会う事自体おかしいはずの人ですから、これで良いのでしょう」

「…九十年くらい普通に生きて…死んだと思ったら周りの祓いが余りに惜しいと
 詞を掘ってしまって、若返って目覚めてそれ以来…か…うん…
 一人でそれはイヤだな…あの人も辛いだろうな」

弓は書状を乾かし、包んで座卓の脇に置き灯りを消し寝床にふらふらながらも歩いて戻り服を脱ぐ、
そして守のフィミカ様を思っての言葉に微笑んで

「貴女のその優しさと強さ…フィミカ様にも味わって欲しいですね…人生変わるかも知れないのに」

「弓はあたしと会ってやっぱり人生変わった? どのくらい?」

「生涯誰とも心など交わす事も無いと思っていたのですよ、でもその向きや強さがどうあれ
 誰もが何かを抱えて苦しんでいて、そしてそれでも生きて行くのだと
 貴女に会って強く衝撃を受けたのです、そして貴女は優しい…誰よりも」

「そうかなぁ…」

「少なくともわたくしにとっては、一生の出会いでありました、ですからわたくしはここに居る」

改めてそう言われると少し心の温度も上がる物の…もう弓と愛し合う事も出来ないだろうか…
守も家の作業をあらかた止めて灯りと暖を調節しつつ燃料を補充し、寝床へ。

まずは藁布団の上、そして二人分の衣の下、お互い抱き合って。
弓はもうあれだけ豊かだった胸も方々の修復のためにと皮ごと使ってたるんでは居ないが
だいぶ小さくなっていたし、そしてなおあばらも浮くほどになっていて手足はもう自分より細い。
体のひんやりした人なのは変わらない、でもその濁って何も見えないはずの目はますます暖かかった。

「抱きたい…貴女を…」

弓のその言葉は物凄く本音だろう、でもいつものようにでは絶対に持たない、そうも言っていた。

「こう言うのって体力使うよね…だからダメって言いたいんだけど…あたしも抱かれたいよ…弓に」

そう言ってから、守は自分が覆い被るように弓の上になり

「弓がしたい事言って、あたし…その通りに動くから」

「ああ…守」

これが最後の肌を重ねた夜だった。



時は無情に過ぎる。
益々春が濃くなるのに、弓は益々やせ衰えていた。
そしてとうとう激しい痛みが体を襲い始めて居た。
今までは守の陣や弓自身の祓いや、稜威雌の力でなんとか持っていた物も、
それすらも効かなくなってきていた。

それでも精一杯弓は耐えようとするし、耐えなくていいなんて言ったら屹度後悔するような
悲痛な苦しみを聞く事になるだろう守も何も言えなくなっていた。

もう汗をかく体力なんて無いだろうにそれでも弓の全身に汗が滲み、ちょっとした瞬間に
呻く事も多くなった。

弓はもう骨と皮だった。
全身を拭く守、悲しいけれどでも「これが死と別れ」だと言う事も胸に刻みつけた。

「守…わたくしに服を着させてください…全部を…」

「え…」

「貴女に初めて会った時の服装…」

「…ん…判った…」

服を着せ、紅を差して上げた、余り弓は化粧をしなかったが、時々紅を欲しがった。
その紅を愛し合った時に首やあちこちに移され、遊びに来た若き摂津にからかわれる
そんな日々もあったなぁと思い出す。

もう守も二十代中頃に入ろうと言う頃で、弓は二十代も中を過ぎ、三十路へ向かう途中であった。

改めてあの日の装束に身を包むと、少し見える肩や手は矢張り痛ましいほど痩せていた。
頬も痩(こ)けていたし、座る姿が弱々しい。
初めて見たあの…細い人なのに妙に強く頼もしいという印象は無い。
全身を襲う痛みに何とか堪えている…それで精一杯の弓だった。

お互い何かを思い合い、少し間が流れた後、弓が口を開いた。

「守にお願いがあります、先ずそれを果たすと約束してください」

「え…でも中身聞かないとあたしも応えられないよ」

「どうか、先ずは約束をしてください」

「…判った…約束するよ…」

でもこの瞬間、守はとてもイヤな予感がした。

「先ずこの書状を…是非貴女に…届けて欲しいのです」

「え…どこへ? 最後まで一緒だって言ったじゃ無い!」

守が書状は受け取りつつ思わず声を上げた。

「…言いました…でもわたくしには…最後にやらなければならない事がありました…ごめんなさい…」

いつもなら「申し訳ありません」という弓が「ごめんなさい」と言った。
守が驚くと、弓はその弱々しい左手に持った稜威雌を差し出し

「これを…本家に帰さなければ…それをせねば先代の意志を継げません…」

「先代の意志…?」

「先代は戦いの果てに亡くなったと聞いています、そして…再び稜威雌を振るうに値する者が現れるまで…
 保存しておいてくれと…時の四條院と天野に託し果てたそうです。
 わたくしは…これを果たす事を脇に置いて…貴女と過ごす事ばかりに気を向けてしまいました…
 ごめんなさい…貴女ともっと生きていたかった…看取っても欲しかった…そしてこんなになるまで…」

「それが…十条の祓いとしての勤めなんだね…?」

「はい…どうか…」

「…辛いと思う、痛いと思う、苦しいと思う、でも…じゃあでもあたしの方にも約束して!
 あたしが戻るまで…弓は生きていて!」

「約束…します…そして…」

弓は死力を振り絞って詞を唱えた。

「無茶しないで!」

駆け寄る守に触れると、守の体がなんだか軽く感じられた。

「…急いで欲しい…そして貴女も急ぐ…だからこれは二人の気持ち…」

身体能力向上だった、初めてそれを掛けられた守は今なら何でも出来そうな感覚になっていると

「さぁ…稜威雌を…」

弱々しく差し出されたそれ、弓のここぞという時の武器である。
死んでも離さない勢いで握っていたそれを、今次の誰かへ托(たく)そうとしている。
それも未来へ出来る事の一つ、共同作業だ…

守は稜威雌を受け取り、精一杯の早さで家を掛け出た。

見送った弓にはもう守の陣の他は何も無い、自らの祓いも振り絞った、そして稜威雌は手放した。
覚悟はしていたが、その覚悟を後悔させるほどの痛みや苦しみが襲ってくる…!



野山を守は駆け巡り急いだ。
都の場所は知っている、いつも弓はその方向を気にしていた。
だからどっちに行けばいいのかはよく知っている、
春の太陽ならどの位置にある時どの方角かを知っている、
麓に行ったのでは回り道だ、守は急いでいた、だから人の分け入らぬ山へ入った、
今なら出来る、弓の詞も載っているのだ、木々の幾つかなどなぎ倒す勢いで走れる。

しかし、大木の根に足を掛け転んでしまった。

無敵のようで居て無敵じゃないのだと、自らの限界を知ってそれでも自らの限界に挑まねばならない
それが祓い人なのだと思い知った。

稜威雌は手放さなかったが懐から書状が落ちてそれを拾おうとすると、
裏面になっていたそれにはもう一つ、書状なんて偉い物では無く、手紙があった。
そして「守へ」とあった。



守へ

貴女は一人取り残され幾年(いくとせ)を
わたくしは異形の身である事から自ら一人に
そんなわたくし達が出会った事も何かの巡り合わせなのでしょう

わたくしは女好きの女という更に特異な性癖をしておりますが、いつも方々を巡る時は
供物の子にはそんな遠慮はしませんでした、どうせこれっきりなのだから、と
そんなわたくしが貴女と出会ってその手で容易に振れる事を躊躇われるようなほどの
気持ちになった事はわたくし自身にとって意外でした

貴女に嫌われたくは無い、貴女ともっと過ごしたい
わたくしの気持ちがそれに支配されるまでそう時間は掛かりませんでした

そして貴女を抱く事が出来た、この上ない幸せでありました
楽しい時を重ねた事を過去の事などと風化させたくは無い
ですがわたくしは死に、貴女は生きる
これも変えられません、風化とまでは行かずとも、
貴女はいつかわたくしの事を片隅において生きなければならない時も来るかも知れません

そんな思いを貴女にさせたくは無かった
でも巡り合わせはわたくし達を引き裂きもします
とても悲しいけれど抗ったところで何も変えられない
出会った巡り合わせだけを信じ別れる巡り合わせを信じないなどそんな都合は矢張り聞いてはくれません

別れは言いません、別れたくないもの
でも、いつかわたしを頭の隅にだけ置く事も貴女はいつか受け止めてください

そうでないとあなたを不幸にしてしまう

それだけは望まない

貴女を愛しているから
貴女の幸福を望みます

応永年間 十条 弓

 花満ちて 吾が待つ番と 君を待つ
 道行く無事を 花の散るまで



正確な時間など覚えていない、それが一晩かかったのか
それともその日のうちだったのか、
涙でぐしゃぐしゃの守が十条本家にたどり着き、書状と稜威雌を渡せば
十条本家も、そこに居た芹生や稚日女もその意を悟った。

そして直ぐにも戻ろうとする守を抱えて何より本家を飛び出したのは芹生と稚日女だった。
その時ばかりは子も目に入らなかった、親失格だと思っても、それだけは抗えなかった。

春は桜の咲き、そして早い物は散りまた次の品種が咲いて散る、そんな中を三人は急ぐ。

そして守には見慣れた丘と神社とそして家、二年前に植えた八重桜は去年よりまた大きく
日当たりの良い場所に植えた事もあって満開だった。

…そしてその下に弓は倒れていた。

「…あんな体で外へ出るなんて…」

守の一言が弓への一歩を更に早く縮めた。

皆が弓の名を呼び、守はその手を取った。

余程苦しみもがいたのだろう、その爪は剥がれ、指の幾つかは折れていた。

もう死んでいるようにしか見えないそれ、何しろ生まれながらに死人のように青白く
その目に光を宿す事は無いのだから、稚日女はもう涙が止められなくなって泣き出していた…が

弓の手を握る守の手にホンの少しだけ握り返す反応があった。

「弓!!」

守が叫ぶと、芹生が渾身の祓いを込め弓の痛みや苦しみを和らげようと詞を込めた。
弓は無表情であったが、最後の最後に、少し微笑んだようであった。

そして守の手に弓からの力は感じなくなった。

その時、頭上の桜がざわめいた。

後は何度弓の名を呼んでも、もはやそれは本当に抜け殻になっていた。



数年後、その土地にはもうひと棟家が建っていて、そこに住んでいたのは芹生と稚日女の一家であった。
自分たちももう全盛は過ぎているし、後進に譲るのと同時にこの土地一帯の祓いを後任した。

四人の子らはすくすくと育ち、守を慕い、守から生きる知恵を色々と教えて貰っていた。

いずれ一人前になったら、四人の内何人かは都へ帰すという約束で一家はここへ移り住んだ。

そして稜威雌は…本家でも丘の上の神社でも無く、守の住居に置かれた。
この地を離れるつもりの無い守の生きている間は、守もまた稜威雌を持つ事は無くとも
主の一人…二代の片割れとして…と言う事でしばらくこの地にある事になった。

桜が満開の頃、いつも守は八重桜に向かってこう声を掛けた

「今年も綺麗だね、弓」




第七幕   閉


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