L'hallucination 〜アルシナシオン〜

CASE:Twenty

第七幕


無理をすれば一日で飛べたのだろうがそこは様子を見ながら三日ほど、
下野国(おおよそ現在の栃木)に到着し、宇都宮の外れに降り立った。

「忙しく方々を回らされているようだが、十条殿におかれては安達様が命じた仕事を
 よくぞやって戴いた」

屋敷の中で七代当主景綱(かげつな)を前に八重は綺麗な礼をした。

「しかし賊は尽きません、そして私も残念ながら悪党討伐だけに
 専従するわけにも行かず、安達様におかれましては誠に残念に御座在ります」

景綱は還暦手前、既にその息子貞綱(さだつな)が活躍していて、
弘安の役でも大きな役割を果たし、幕府に忠実に働いては居るが、
正応の当時幕府で猛威を振るっていた霜月騒動の中心人物に染まりきらぬ、
都とも幕府とも適宜距離を保つ、そういう立ち位置、そして景綱の妻が安達の出身、
そう、八重がすんなり安達泰時亡き後も仕事を引き継げたのには
この景綱などの尽力もあったのだ。

「いや…立派にやってくれた、そこの二人は生徒になるのか?」

嵯峨丸は礼と共に

「四條院嵯峨丸に御座在ります」

慌てて大丸もそれに倣い

「あ…天野大丸」

「生徒というより私は彼らの後押し係です、いずれ上級に上がりましょう」

そうなるといいな…という細かい機微が二人から漏れる。
景綱は微笑んで

「そうか、ではいつか二人に仕事を頼むことになるかも知れないな」

二人は礼でそれに応え、八重はふっと微笑んだ。
その時…イヤな揺れが屋敷を包み、あちこちが軋み出す。

嵯峨丸が反射的に範囲守りの詞を展開し、嵯峨丸を中心にある程度の屋舎を守る!

「結構長いぞ…これは大変なことになるな…」

景綱が愕然としていると、八重はその場に集中して目を閉じていたが

「…相模の方角だ…これは不味い、津波が押し寄せるぞ…」

「十条殿、頼めるか」

「承知致しました、二人とも、組んで武蔵国から房総の四つの国で
 出来ることをしてくれ、ただし津波には気をつけろ、あの辺りは土地が低い、
 今すぐ、出来る限り急いで、津波に間に合わなかったら無理をせず
 波が引いてから、出来る限りのことをしてくれ」

そう言って八重は飛び出していった。
後を追うように二人も外に出ると、既に八重は相模の方角へ物凄い早さで跳んでいた。

正応六年四月十二日(1294年5月19日)、震源地や規模など正確なことは判っていないが
おおよそマグニチュード8クラスの地震が関東で起きている。

結構内陸の宇都宮でさえも被害があちこちに見える。
今居る場所ではなく、八重は震源、あるいは想定される被害の相対的に大きな場所を
地の揺れから察知していたようで、幕府の置かれた鎌倉へ跳んだのだ。

あのいつも冷静で慌てることなく行動する八重が退出時依頼主へ礼をすることも
すっ飛ばして跳んでいったのだ、これは…自分たちの手に負えるのだろうか、
二人は狼狽えつつも嵯峨丸が飛ぶ詞と身体向上で八重の言うとおり行動しようとすると

「この地には今儂が居る、ここのことは儂に任せて、十条殿の言うように
 慌てず急いで正確に動きなさい」

景綱が背後に居て二人に声を掛けた。
愕然としていた二人に、その声はスッと心に響き、二人の表情に
落ち着きと緊張が同居し、目つきが変わった。

「有り難う御座在ります、行って参ります!」

二人はお辞儀をしてそして八重に言われたように行動を開始した。



祓いの仕事どころではなくなってしまった。
そこから四ヶ月後、三人はまた景綱の元へ参じた。

なぜ四ヶ月だったのか、そこには少し事情があった。

「都から改元の通達がありました、五日より元号は永仁(えいにん)、
 どうも各地で干魃などもあったようです」

時期が時期だけに地震の影響も強く、ある程度予想はされたが、
泣きっ面に蜂とでも言うべきか、干魃もあり各人への安否確認と共に
緊急というわけで八重にも、嵯峨丸と大丸の二人にもそれぞれ祓いの通達があって
そこでお互いの安否の確認や復興などの進捗を報告で宇都宮に舞い戻った。

「平地は酷いモンだった、八重さんに言われてなかったらオレ
 この姿のままで色々覚束(おぼつか)無かっただろうな…」

「うん? 私何か言ったかな」

「自制も過ぎれば救えるモノも救えなくなるって感じの」

「…ああ、じゃあ、結構存分に動けたって見ていいのかな」

そこへ嵯峨丸が少しばつの悪そうに

「ただ…やはり無用に畏れられましたし、それを過ぎれば無用に持て囃されたり、
 色々な意味で大変でした…」

「まぁな…傍目には大きな狼を従えた少女剣士が地震や津波の被害から
 救える人を救って回り、怪我を治したり道の復旧に努めたり…
 どうしたって神の御使いがやって来たように感じただろうね…w」

八重も少しだけ同情はしつつ、「結構そういうの、似合っているよ」と笑いかけた。

「しばらくあの辺うろつきたくないぜ…」

「何かの見間違えです、なんていうのも限度があるからね…」

景綱が設けた慰労の席という少し砕けた場所だったので、
二人とも普段の感じで余り改まることも畏まることもなくただ正直な真情を吐露した。

景綱が笑って

「いや、もっともっと被害が大きくてもおかしくなかったと方々から聞いた。
 矢張り特に十条殿、あの大変な時に良く息子を辿ってから貞時殿に
 指示を仰いでくれた、お陰で…」

「おっと、景綱様、その先は要りませんよ」

「そうか…、いや…祓いに余計なことをさせてしまった」

「お気になさらずに、私も進んで志願したに近かったので、
 それに…色々な無念があの時は渦巻いていたので片付けられるモノは
 さっさとやってしまわないと、祓いとしても厄介なモノを抱えたかも知れません」

二人が訳が分からないと言う表情をしたので、八重は酒を飲みつつも

「無念の青田刈りをしたのさ」

なんとなく判るような気がした、怖っ…!
震え上がる二人だが、八重は少し残念そうに続けて

「にしても二万以上の命を失ってしまった、私もまだまだだな」

景綱がそこへ

「いや…相模は一見山地も多いがかなり地が緩い、あっという間に
 飲み込まれればもう後は時との勝負、一人で出来ることなど限りがある
 良くやってくれた、貞時殿にも言われたであろうが儂からも礼を言う」

八重は静かに礼で答えつつ

「宇都宮様も返り咲きおめでとう御座在ります」

景綱は静かに微笑んで杯を空けた。
な、何か大人の世界だ…血や穢れにまみれつつもそれに踊らされない玄人の世界だ…
二人はその時になって初めてちょっと萎縮した。



そんなわけでやっと本来の仕事に取りかかれる状態になった。

魔や悪霊の起こす騒動も大変と言えば大変なのだが、記録に残るような大地震
となるともう話は別、実際万単位の犠牲を出したわけで、流石に魔が大挙して
大きな街にでも押し寄せない限りはあり得ない災害だっただけに
各地の祓いも総出で先ずは…とてんてこ舞いだったのだ。

各地の祓いとも面識は出来た物の、矢張り余り進んで祓いの力を普通の人々を前に
前面に押し出すことは控えていた祓い人が大半なので、八重やその教えを受けた
二人の誤解も畏れも厭わない大胆な行動は事今回の震災においては賞賛されたが…

「落ち武者の霊とそれを指揮する女の魔…か…目撃情報からだと
 妙齢の…とあるから婆さんではなさそうだが、或いは似たような役割の魔
 だとしたら…これはちょっと気合いを入れないとダメだな」

八重が情報からおおよそこの辺り…と言う地点を紙に書き検め、目指しながら呟く

「お婆さんのような魔…では無い気がします」

嵯峨丸の言葉に八重が

「なぜそう思うんだい?」

「そうであるなら、既に里や街の一帯は…依頼を受けてからですと五つき、
 とっくに滅ぼされているかと…」

「そーだなー、俺達を待つ義理なんか無いからなぁ、増してばーちゃんでないなら」

八重は溜飲を下げ

「中々いい読みをする、成る程、確かにそうだ」

「ただ…といって違うとも言い切れません」

「うん、然るに大事なモノの考え方だ、両方の先で挑むとしよう」

この時は八重も早々に野営場所を決めたりはせずになるべく現場に近く
突き進んでいった。
山地に分け入り、滝のある沢が遠くに見える、八重の表情が引き締まり

「…あれだ」

まだ夕刻前と言うことで雰囲気は薄いが、なるほど死霊の蠢きを感じる。

「…二人とも、ちょっとここに居てくれるかい?」

どうする気だろう? まさか一人で?
と思うと、八重はほぼ垂直に跳び、辺りを見回し降りてきて

「少し遠回りになるが温泉がある、そこを拠点にしよう」

「八重さん、温泉好きだな」

少し呆れたように大丸が思わず言うと、八重は笑いながら

「食うこと寝ること、疲れを落としてさっぱりすること、私の数少ない楽しみさ…w」

それだけを聞くとだらしのない人に感じるが、もう判る、確かに八重ほど
普段から静かに、しかし一分の隙もないほど張り詰めている人なら判る。

震災被害の手助けでやっとひと息ついて直ぐの仕事再開だけに
今の二人には言われてみれば「ちょっとゆっくり息を抜きたい」という気持ちは分かる。

まだ二人は上級には上がれていないが、今回のことで二人の絆は深まっていたし
八重がどういう人なのかもよく見えてきた、嵯峨丸は微笑んで

「では、そこに参りましょう」



野営場所を整えつつも八重は腰を落ち着ける気は無いらしく

「向こうも祓いが来たことは既に察知しているだろう、
 いい時間だ、向こうも余計な策を弄さずに目一杯暴れられるだろうさ、では行こうか」

夜に蠢く魔や悪霊の巣窟に日のある内に赴くのもそれなりに危険があろう、
お互いほぼ何も考えず全力でぶつかった方が後腐れがなくていい
もう八重の考えは判っていた。
この人は、敢えて相手のチカラを充分に引き出せる状況で戦おうとするだろう。

二人とも最高の気持ちで挑める覚悟でついて行く。

そして

「居る…数えるのも億劫に為るほどウジャウジャ居やがるぜ」

進む闇の先を真っ直ぐ見据えながら大丸が言うと、暗闇から
悪気を纏った矢が沢山飛んでくるが、嵯峨丸は既に範囲守りを唱え終えており
それらが受け止められつつ浄化して行く、更に嵯峨丸は追加で
大丸と八重二人同時に身体向上を使った。

「ん…、この四つきの間に二人とも成長したみたいだな」

八重は振り返らずに呟いたが満足そうに言ったのが判る。
嵯峨丸が加えてそれぞれに個人防御の詞も重ねた時、少し広い場所に出る
そこには近隣の武者の霊をかき集めたとばかりにおびただしい数の…
そして時代も所属もバラバラ…源平もそれ以前もごちゃごちゃな軍勢だった。

「一体何百年前からちまちまと兵を集めてたんだ、目的はなんだ」

八重の少し低い張り上げては居ないが通る声が沢に響く。
死霊の数は多いが広いその空間、滝の音も響いている。

『妾の名を聞かぬのか』

「蛟(みずち)さんなのは判るンだ、ただその蛟さんがなにゆえ、となるとそこが判らない」

矢の攻撃も散発される中、三人は寄り広場の中程に歩んだ。
大丸と嵯峨丸は大将は八重に任せ、おびただしい数の死霊を相手にすべく、
八重の後ろ左右を固めた。

『なに…もう大昔に成るがここいらに刀工があってねェ
 祀られる内に妾も現れ出でたが、さぁ、何があったのやら、ある日
 争いがあって、ここの滝壺…結構深いんだが…そこに刀を山と抱えた
 女が斬られ落ちてきたのさ、その血の味が忘れられなくってねェ』

「ここいらで果てた武者の霊使って生け贄でも求めたか」

『ああ…ただそれが知れ渡ったかここしばらく人里も遠くなって…』

「ふむ…こいつら使ってどこかまで遠征でもしようと?」

『それと…お前達のような祓いが飛び込んでくる…』

「…ほう、その様子じゃ何人か屠ったか」

『特に女がいい、女の血が欲しい』

「成る程良く判った」

死霊達が一斉に襲いかかる、もう彼らに自我はない、ただ霊力を高めた
ミズチによって操られるがままのようだ…!

嵯峨丸が太刀を浴びせ、ある程度纏まったところを投網のような祓いで浄化、
大丸は遠慮無く狼の姿になり素早い野生の動きで死霊を翻弄し、一体一体
確実にその牙や爪で浄化を果たして行く。

『なかなかやりおる…』

「まぁね、ただの祓いじゃない、特定の持ち場のない助っ人専門の祓いなんだ」

八重はあっという間に間合いを詰めて一女の守り切った方ではなく
もう片方の試作品で抜刀術を仕掛ける、ミズチは流石に息の長い魔だけ在って
それをギリギリで躱し、自らの持つ刀…ほぼ直刀なのだが、それを抜いて
八重の野太刀を払うのだが、八重もそこは読んでいたかその勢いを利用し
青い祓いを帯びた刀身は後ろから斜めから飛びかかる死霊を祓う!

「刀身に魔を込めていない、アンタもなかなかやるようだ」

『そんなことをすれば刀身ごと祓われることなど何度も味わったよ…!
 そしてここは川の中だ、膝まで川に入って…自ら動きを封じるとはねェ!」

ミズチの刀が物凄い勢いで八重を何度も突く!
しかし八重は動きは最小、刀の柄や手で刃先の軌道を逸らし、かつ
割り込んでこようとする死霊に対してそのミズチの刃先に祓いを移し
その刃を利用して横やりを蛟本人に祓わせる…!

「ふふふ…w」

八重が思わず声を漏らした、その目、爛々としており口の端も上げて
戦いを楽しんでいるかのようだった。

「もっと本気出しなよ、中々いい線は行っているよ?」

そして何処までも煽る、
流石数百年人の血を吸い続けたミズチも顔色を怨に染める

『おのれ、あとで悔いるでないぞ!』

ミズチの長い間に培った魔の気が一気に強まり、且つ刀身には魔を込めない
冷静さも失わずに更に早さと威力を増した突きの連打!
流石の八重も全てを躱すことが出来ず、少しずつではあるが怪我を重ねられる!

元の数の半分まで減じた死霊どもと間合いを計り直しつつ、二人は
その様子に少したじろいだ、八重が押されるなんて!
体に動揺が走りかけるが、そんな時にそんな激しい攻防の中でも
八重の含み笑いの声も漏れてくる、そしてその目はギラギラとしていた、
上手く開かない右目の瞼も出来る限り開けてミズチの全身全霊の攻撃を受けつつ
それに喜びすら感じているようだった。

慣れてきたとは言え、今までにない激しい攻防で見せた八重の姿に
魔以上の恐怖すら二人は覚えた。

しかしそれにひるんでいてはまだまだ居る死霊の攻撃を食らいそうになり、
慌てて今やるべき事に再び向き合う。
二人は頷き合い

「例えあの人が一人で倒せるのだとしても…!」

「うん、無用と言われない限りは…」

「オレ達があの人を支える!」

二人の気が一段上がる、祓いの勢いも増す!
嵯峨丸の詞はより広く、そして別々の方向へ同時に投げられ、
大丸は体当たりで飛び散る死霊の浄化のしぶきが更に周りの死霊を浄化するという強烈さ!

形勢は二人側の方は明らかに優勢で、次々と死霊がほぼ何も出来ずに祓われて行く!

八重は…

ミズチの刀が八重の右胸に刺さり貫通した!
ニヤリと仕掛かるミズチが次に見た物はたじろぎもせずそのミズチの
刀を握った腕を掴む八重の右手!
傷口から噴き出す八重の血、だがミズチは握られた腕と刀を捨てて後ろに飛び退った!

血を吐きながらも八重はニヤリと笑って



「どうした、アンタの好きな血だぞ、私はこれでも女だ、アンタの好きな祓いの血だ」

『血に祓いを込めてわざと刺されたね…、妾から刀と動きを奪い
 その血を浴びせようとしたね…!』

二人は見た、八重から吹き出た血は柄を握ったまま残されたミズチの手を浄化して行く
己の何もかもを利用する、不利も利用し勝利を掴まんとするその戦法、

『しかしその様子…素早く治癒せねば長くは持つまい…!』

ミズチは滝壺に沈んでいった

「時間稼ぎと、武器の補充かい、さび付いてもその治しだけは魔のチカラでする訳だ
 …手伝ってやるよ」

八重が両手で水面を叩くと、祓いによる衝撃で物凄い水の柱が立ち、
そして抜刀でそれを凍らせた!



滝壺は長い年月で結構な広さになっており、やや手前側…古い時代の場所に
なるほど、何振りかの錆びた刀を抱き留めたまま、その重りでほぼ崩れることなく
横たわる骨があった。

「強い魂だ、確かに何があったかは判らないが、死してなお刀を守ろうと…」

その姿に一女が重なった。

「縛られたお前の魂を、解き放とう」

ミズチは錆びた刀の一つを既に手に取っていて、魔力を込め復元していた。
その根源は、この刀工の女と思われる遺体からも流れていた。

『血しぶきをも使った戦いもそう何度も出来まい…次こそは
 その血を妾のモノにしようぞ!』

「やってみな、判ってみればなんて事はない、あんた自身のチカラだけでも無かった」

物凄い早さで斬り掛かる蛟、八重は静かに一歩前へ出て自らに突き立った直刀に
祓いを込め抜くとそれを遺体の側に突き立てた!

「名も判らない刀工の女、私の血と祓いをお前に捧げよう」

すると、その遺体からの気が全て八重に向かい、蛟の力が弱まる!
八重の目の前まで来て愕然とした蛟、次の瞬間…



一女の思いが込められた野太刀がミズチを真っ二つにしていた。

「大丸! 嵯峨丸!」

凍った滝壺から八重がそう叫ぶと、氷の柱を上から二人が跳んできて
それぞれ泣き別れた半身を祓った!
その瞬間には既に八重は遺体側を向いていて野太刀を鞘に収め終わるところだった。

「祓い、終いました」

嵯峨丸が言うと大丸も

「大丈夫か、結構な出血だったぞ」

八重は片膝を付き遺体に触れながらも微笑み

「慣れっこさ、あのくらい」

確かに八重の体は傷だらけだがそこまで無茶苦茶とは…二人が改めて圧倒されていると

「あんたら、お互いの目を見てみな」

えっ、と二人がお互いの顔を見ると
嵯峨丸の青い眼、大丸の金色の眼、片方の色が抜け、片方の色が深まった。

「おめでとう、登ったね」

八重が穏やかに言うと、滝側の氷の壁が溶けて崩れ始めた。
三人が滝の上まで跳び上がるといよいよ氷の柱は崩れ、元の流れが戻ろうとしていた。

そして、八重は遺体とその側に突き立てた刀を連れてきていた。
それがどんな姿であろうと、八重はその遺体を抱きしめた。
いつもドライな八重にしては心のこもった行動に二人は少し戸惑ったが
もう八重はこの遺体に救えなかった一女の姿が被り強く抱きしめた。

その時、もやっとした魂が遺体から沸き出でた。
物凄く朧気な姿で顔などは判らないが、少なくとも現代の服装では無い事だけは判る、
ミズチの言った通り可成り昔の魂なのだろう。

『貴女様は…どなたですか、私に…心を戻してくださいました…』

「済まない…救えなくて、本当に済まない…」

それは八重の一女に向けた懺悔だったが、そんなことは八重以外の誰も知らない。

『何を仰いましょう、今…私は目覚めました…とはいえ…殆ど何も思い出せません』

「…そうか…」

八重はそこでやっと言えた一言に少し吹っ切れたのか、落ち着いて
直刀を捧げるように翳(かざ)しながら

「覚えはあるかい?」

『…なんとなく…私は…自らの魂の形であるこれらを守ろうと言うことだけは…』

「よし…、どうもお前はその思いが純粋であったが為にミズチに利用されつつ
 それを断ち切った今、一つ上の存在になったようだ」

『…可成りの年月を重ねたようです、ミズチのことはなんとなく覚えて…
 貴女様のその刀、なんと長大なのでしょう』

「これかい、そうだな、私とある人の、これも魂の形なんだ。
 この大きさなのは単に私の好きでね…長い年月の間に刀は反り、片刃が当たり前になり
 そして今もまだ色々試されている、そんな中の一つさ、この野太刀も」

八重が野太刀を二つ持ち、そのうちの立派な片方を「ここぞ」という
大事な時にしか使わないことを二人は短い間だが理解していた、
その理由を今知った、どう言う経緯があるのかは知らない、だがその刀こそが
八重と「誰か」の命の形なのだと。

『野太刀…その野太刀…惹かれます、貴女に魂を救われました、
 私は貴方のその魂の形をその持ち手である貴女と共にお守り致しましょう
 丁度…その刀には…どなたかの魂の欠片が…その姿だけが焼き付いております』

一女…全身全霊を掛けてその魂の力を失ってなおこの野太刀にすがっていたのか…
八重の表情が驚きに満ちた。

「そうか…あんまりに微かになりすぎて…ずっと側に居たんだな…
 お前は逆に力は残ったが姿が残っていない…これも巡り合わせか…
 この刀を守ってくれるのかい」

『はい、その刀がある限り、私はそれとその持ち手を守りましょう』

八重は改めて両膝をついて腰元からその野太刀を紐解き、刀工の魂へ差し出すように
両手で差し上げた。

「宜しく頼む、私は十条八重、祓い人だ」

『わたくしは…覚えておりません…今この刀と一つになって新たな姿に成りましょう
 わたくしに名を付けてください、八重様』

「古代の刀工…アメノオホバリ、イツノオバシリ…成る程お前の刀、環頭太刀に近い…
 稜威雄走…その名から天野風に名をいじらせて貰おう、
 お前は女だから雄を雌に替えてハシリは省かせて貰う…
 稜威雌…お前の名はイツノメだ」

『頂戴致します、わたくし、稜威雌として刃に宿りましょう』

遺体から湧き出たもやっとした朧気な魂は、野太刀の刃にこびりついた姿を譲り受け
そしてその刃に収まった。

八重は差し上げた手を下ろし、天を仰ぎ見て涙を流した。
二人は少し動揺した。
八重にとって物凄く、何か物凄く本当に大事な何かがそこにあるのだと
初めて見る八重の涙に流石に少し胸が詰まった。



平安絵巻のような寝所の風景、というのは八重がなんとなくイメージした物だった。
そして家屋そのものは神社の造り、その中にあり、八重はその身を稜威雌に任せていた。

「良いのですか、嵯峨丸様の手助けは断って…わたくしもまだ
 何処までやれるか判りませんのに…」

「お前の癒やしが欲しい、あとは自力で…それでいい
 …それに…二人は上級に今さっき上がったばかりだ…休養も必要さ」

「そうですか…祓い人…うっすらと…その何かを知っているような気がします」

「祓いは古いからな…ああ、お前が側に居て労ってくれるだけで…私にはそれでいい」

八重が余りに心底言う物だから、つい稜威雌は顔が赤らんだ。

「あの…刀にあった姿というのは…」

稜威雌の質問に八重は遠い目をしつつ

「気にすることは無い…昔のことさ…」

「…おかしな感じです…」

「どうかしたのかい?」

稜威雌は物凄く朧気な精から姿を借りて再誕したばかり、と言うこともあり
矢張りどうしても生前の事や、死してミズチの糧になっていたことなども
思い出したくも為るが、しかし矢張り細かいことなどは何も思い出せない、

ただ、自分の作刀した刀を無碍に奪われたり使われたりするのはイヤだという
何かその感覚だけはあり、そして、何気なく惹かれた八重の野太刀、
妙に…初めての事の筈なのに、妙に居心地が良かった。
そして、初めて触れあうはずの八重がその血や祓いを自分に捧げて呉れた…
と言う以上に何かとても…自分が選んだ主という以上に身近に感じた。

「…混乱しています、思い出した方がいいのか…」

「無理に思い出そうとすることなんて無い、思いは今から積み重ねたっていい
 でも…そうだな…一つだけ言っておくよ…長い付き合いになるかも知れないし」

今まで感情たっぷりに接していた八重の表情が消えた。
なにか大事なことを言うのだと稜威雌にも判る。

「過ぎ去った時はそれはそれで…稜威雌…お前の事を…愛しく思う
 その「愛しさ」をなんと思おうと、そしてそれでお前が私に対して
 どう思おうと構わないが、最低限刀とその持ち手という関係だけは断ちたくない」

確かに「愛しい」と言うだけでは判らない、筈なのだが、稜威雌には判った。

「…おかしな感じはこれでしたか…そう…私は貴女のどこか雄々しいと言いましょうか
 凜々しさに何か一種の思い違いをしたのかと思っていました」

稜威雌がちょっとはにかみながら

「でも違いました、何か私の…私の何かが貴女様の心を動かし、
 そして血と祓いと、そしてこの刀と、その優しいお気持ちを私に注いで…
 私はそれでもう一度…心を持ったモノとして生まれ変わることが出来たのですね
 貴女様が私を愛しいと思ってくれたから、私は稜威雌として生まれ変わった…」

八重はそれをただじっと聞いていた。

「八重様、貴女様はそれで良いのでしょうか」

その問いかけに八重は自嘲気味で

「生まれ持っての物でね…私は女しか相手に出来ない女なのさ
 どう思ってくれても構わないよ、でもそうなんだから仕方ない…」

「きっと、死と隣り合わせの戦いよりも、それは八重様にとって大きく重い告白…
 そのお気持ちは良く判りました、嬉しく思います、ですが先ずは
 傷を治すことに専念してください」

稜威雌が八重の右胸の刺し傷に触れるが、痛くない。
そして八重への慈愛がより高まり、治癒を早めた。





「八重さん大丈夫かなぁ、抜かりなく急所は逸らしたんだろうが
 あれ凄い血だったぞ」

「でも稜威雌さんの力も良く受けてみたいし大丈夫だって断られちゃったモンなぁ」

温泉の中、ほかほかとした安らぎの中、ついつい長湯の構え。
嵯峨丸がのぼせ気味に湯に顔から沈もうとするところを大丸が慌てて

「おいおい! 八重さんも言ってたろ、オレ達が上級に上がった疲れが来るだろうって
 もう上がった方がいいって」

「うん、いや…八重さんの人生の何かホンの少しだけれど見えて…
 悲しいなぁって思っちゃって…」

縁に腰を掛け八月(新暦九月)の夜空を見上げる。
嵯峨丸は中々皮膚が弱く、八重からは柔らかく加工したヘチマやら
植物から抽出した肌に優しい洗剤も教えて貰っていてそれでこすりだし泡にまみれて行く。

「確かにな…なにかこう…稜威雌さんに少し別な人を重ねたっぽいけど…」

「八重様の好きな人に似ているのかな」

「好きな人か…あの人は女好きなんだな…それにしちゃ嵯峨丸に眉一つ動かさなかった」

「僕はこれでも男だし…」

体をこすりつつく顔を赤くして俯く嵯峨丸、それはそれで…可愛い。
男にしては体型も丸い、幾ら鍛えても殆ど筋肉になってくれないその細い体。
大丸はそんな嵯峨丸を見つめて

「なぁ、目を見せてくれ」

「うん? ん」

見つめ合う形になる。

「いい感じだ、綺麗だぜ、嵯峨丸」

「大丸も、逞しくなって行くよね」

湯を流そうとした時、大丸がその後ろから抱きついて嵯峨丸を両手で包み込んだ。
そして嵯峨丸もその抱える手に自らの手を添えて

「僕たちも…人のことは言えないんだよね」

「でも…迂闊にその気になれねぇ…狼になっちまったらお前の背中ボロボロにしそうで」

「…ん…でも…僕はそれもいいかなって思うんだ」

「ダメだよ…おれはお前を傷つけたくないんだからよ…」

仕事を終えた一行それぞれに、戦いとは違う手放しで喜べない複雑な思いがのしかかる。


第七幕  閉


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