L'hallucination 〜アルシナシオン〜

CASE:Sixteen

第八幕


「やぁ、八千代、出雲だったって? お…その子は」

戦をくぐり抜け、帰りがてらに八千代は貴人丘杜に立ち寄っていた。

「あ、あの、千代に御座います、先生が大層お世話になったそうでお話はかねがね伺っております」

ぺこりとお辞儀をする。

「あら、可愛い♪」

家の仕事をしつつ籠を持った桜がにっこりと言った。
その「ほぼ異人さん」という外見については八千代は言っていたが、目の当たりにするとまた凄い。
銅のような巻き毛で青い眼、白い肌、千代も見とれた。

この時点で千代ももう大人なのであるが三十路を越えた二人にとってはまだあどけなさも伺える年頃、
八千代ほど大きくは無いが桜も罔象も当時の男性以上は身の丈もある。

「罔象さん、少し筋落ちました?」

「そりゃぁ全盛期のようには行かないからな、でも、使う分はちゃんと残してあるよ、ほら」

力こぶを作ってみせると成る程脂肪率の低い判りやすい力こぶが見える。
女の人でもこんなに逞しくなれるんだ…、その体格とそれにに合う少し焼けた肌、
「凄い組み合わせ」と千代は思いつつ、なんだか納得してしまった。
恋し合っている二人が好きだと八千代は千代にも語っていたが、なるほど、二人は
ちゃんと分担をして阿吽の呼吸で何も言わずとも言われずともお互いのすることをやっていた。

「お元気なようで何よりです、これ、出雲の蕎麦です、殻付きで挽いておりませんので
 如何様にも使ってください」

と言って可成り大量の袋を二人に土産として差し出した。

「蕎麦か、そういやうどんに倣ってそば切りって言うのもあるらしいな」

「信州…信濃の食べ方ですね、それで食べます?」

「作れるか?」

「ええ、もう抜かりなく♪」

八千代は方々から調味料や調理法を取り寄せていると書いたが、そば切りも例外では無かった。
早速「では、釜から何から借りますね」と脱穀し身をすりつぶして行くのだが
これも先に書いたが千代は八千代の右手を勤めていた、ごく自然に。

罔象も桜もそれを見て顔をほころばせる。

この流れを予想していたのか醤油や清酒でもみりんに可成り近いモノ、昆布や魚の出汁など
出来る限りのことをして蕎麦を作っていた。
「そば殻は袋に詰めて枕にすると良いですよ」とも。

罔象はその間に吊ってある肉を降ろしてきたり(凄く大きな肉を軽そうに持ってくることに
知れば知るほど罔象のすごさが判ってくる千代だった)
桜もそれを受け取っては調理に加わったり、二つの組なのになんだか一体になって動いていた。
八千代にとっては二人は「全ての師匠」でもあるし、千代にしても八千代とはもう十年近い。
出雲でのほろ苦い思いは頭の隅に、今度は充実した喜びに満ちた二人と二人。

食事を済ませた後には一晩泊まる旨、もうお互いの話しが止まらなかった。
千代も話したいことが沢山あったし、八千代も、罔象と桜もそうだ。
一日二日じゃ話し足りない、でもそんな時に矢張り大人の貫禄というのか、罔象の
「なに、また折を見て来るといいのさ」
と言う言葉に気持ちよく別れを告げられる。

帰り道では結構大きな瓶二つに「はじける水」を汲み、そしてそれを土産に実家にも寄る。
頼に渡せば顔を輝かせて喜ぶ。

心に開いた穴を綺麗に埋めることなどは出来ないが、少しずつ別な何かで埋めて行くことは出来る。

これはこれで幸せだ、生きていることは幸せだ、力を持っていることも、
不幸を招き寄せどもそれを破る力でもある、因みに千代ももう体術や武具の扱いは
可成り長けていて、普通の人間相手なら「もうあの時みたいになすがままの流れにはしない」
と自信も漲らせていた。
もし、先生が如何しても生きた人を相手に出来ないというなら自分がその穢れを被ろうとも思っていた。



そして時は流れる。

毛利元就は中国地方十国をまとめ上げるまでに成って居たし、
織田信長も美濃を手に入れ着実に頭角を現してきていた。
甲斐国武田信玄も北条氏や松平(後の徳川)氏との鍔迫り合いで支配領域こそ甲斐と信濃であったが
存在感は強かったし、海のある国を得ることに意欲的であった。
とにかく四方が敵だらけでは身動きもとれないために、あちこちで行うべき順番を確固たるモノにするため
人質を取らせたり、婚姻関係を結ぶなりして同盟を結ぶことも多々、
信長などは武田や徳川とは一旦組んで関内に集中したいようだった。

こういう事情もあり、関東から東海地方、一部畿内に及ぶ地方を八千代はフリーパスでの往来が
正式に許可された。
基よりその地域が活動の拠点であるし、友人や知り合いもその地域に多い。
特に織田の影響下に入った実家がその面識により決定的に逆らわなければ従来通りにしても良い
というお達しがあった事は八千代にとっては喜ばしいことだった。
甲や頼にしてみればやはり国取りの動乱の中に為す術が無かったことに落胆しつつ、家族は守られた
と言う大本で言えば早々に決着も付いたのだから一安心だった。

「八千代、少し前になるが月山での戦の最中に出雲に行ってきたそうだな、毛利はどんな物かな」

美濃の稲葉山城とその城下町をそれぞれ故事にあやかって「岐阜城」「岐阜」と改め移り住んだ彼が
また戦の後始末などで「怨念」に関する物を尾張の時代から使って居た二家の祓いの二人と共に
呼んだ八千代に問うた。

「あの方は確かに結束も固く強い…ですが強く天下を望む訳では無さそうに御座います
 その気があるならもうとっくにその旨動いているはずですし」

「そうか、まぁ敵対せぬと言うならそれに越したことは無い、俺も無駄な戦はしたくないからな」

「あと…これは私としては複雑なのですが、甲斐も上洛の意志あり、既に上洛済みとは言え
 上杉も居りますし、ここからが正念場になりますよ、天下を取るつもりであるならば」

「将軍などお飾りの今、誰かがそうせなばならぬしそれが俺だという意志はお前は判って居るだろう」

「はい、しかし敢えて言わせて戴きます、どうぞ御身辺は時々洗ってください」

「うん? うん、そうだなぁ、よもやお前が俺に?」

八千代は素っ頓狂な顔と声で

「まさか!? 「それが何を意味するか」を一番よく知るのは私ですよ?」

織田は満足そうに笑った。

「お前が楯突く気も無しというなら俺もさっきも言ったように無駄な争いはしたくない
 時々こんな風にあちこちの情報をくれると有り難い」

「とはいえ、隠密ではありませんから、あくまで近傍より眺めた感想に過ぎませんが」

「確かに深い情報とは言えないが、世を俯瞰で眺める眼も必要だ、
 全てが俺の味方である必要など無い、無いが必要な時にその雰囲気を伝えてくれるだけでいい」

八千代が頭を垂れると

「殿! 支度が調いまして御座います!」

「おう、ご苦労だな木下」

「殿の上洛を果たすため、この木下藤吉郎秀吉、身を粉にして働きましょう!」

「期待して居るぞ、では待って居れ」

木下が去ると織田も身支度を確認しつつ

「アイツはどうかな、見た感じ」

「野心はあれど忠義は尽くすと思います」

織田はにやりとして

「よし、では俺も行く、近辺の往来は保証するが、落ち武者や族には気をつけてくれ
 悪霊よりもたちが悪いかも知れないぞ」



出雲での出来事から既に五年、貴人丘杜ももう織田の範疇、これも祓いという一面と八千代の面識、
特に戦術的価値もないところからそのまま、毎年九月から十月に千代と八千代が収穫物などお土産を持って
訪れるのが恒例と成って居た。
少し足を伸ばして大和にも赴き、四條院本家とも繋がりを保った。
何しろ幾ら強くとも織田が万全とは限らない、使える伝手は何でも使う、八千代にしても
四條院本家にしてもそういう意識もあった。

しかし純粋な思いもそこにはある。

「八千代様!」

十三を数えた鈴谷の二人の子が元気に丘杜帰りの二人を囲み出迎える。
これも二年に一度くらいのペースで訪れていた。

「大きくなりましたね」

同性愛者だが八千代は子供は純粋に好きだった。
頼や甲が少し年が離れていることなども影響しているのかも知れない。
手習いで子供と触れる機会も多い、鈴谷とその夫とも面識が出来ていて、
土産や土産話は主に千代が、そして何より八千代は二人に剣や武道も教えていた。

四條院は武器に詞を載せる習慣が無い、と言うだけで武術がまるでダメという訳でも無い。
武術の才のある子はそれを修めもしていたし、鈴谷の二人の子もそうしていた。
そして八千代は機会こそ少ないがそのいい師匠でもあった。

庭で二人を相手に稜威雌は鞘に収めたまま傍目から見ると八千代が軽くいなしているようだが
その八千代のいなしに対して学ぶところを見出し、二人は良い弟子でもあった。

部屋では鈴谷の夫妻と千代がその様子を見ながら話をしていた時である。
年も十三、そろそろ成人が見えてきた年齢でもあり、第二次性徴も重なってきて
急激に大人になると言うことを意識していた二人はいつもより真剣で、そして八千代にも
打ち勝ってみたいという欲求も出てきていた。
いつもは構えなどしない八千代が少し足の位置を調整しているのが千代には判った。

「凄いですね、昴(すばる)様に清(さや)様、先生に警戒をさせるなんて」

えっ、と夫妻は驚いた、この夫妻、詞の修行がメインだったのだ、武術の心得は無い。

「そ、それは何処で判るのです?」

鈴谷の質問に千代が

「先生、足でじわりと間合いを計っています、私でも先生にそうさせるまでつい最近まで
 十年くらい掛かったのに、凄いです」

「まぁ…でも二人同時ですし」

「いえ、数は問題では無いと先生は仰いました、実際、最初の一つを上手く出来るかどうかで
 その後は流れが出来ますから、一人一人の実力がどうとかは余り関係ないそうです」

夫婦は顔を見合わせた、そんな時、庭の方で結構な気合いの声とそして真剣の交わる音。
八千代が刀を抜いた!?
夫妻が驚いて庭を揃って見ると…

「これはこれは…将来有望に御座いますよ、少なくとも最初の内は二人ひと組にて
 動くのが良いと存じます、血の相性…双子だからこそと言いましょうか」

八千代は立ち位置こそ崩さなかった物の昴と清、二人の刀を躱す格好で稜威雌とその鞘で
それぞれの刀を受けざるを得ない、と言う状態になったようだ、詰まり「右手を使った」と言うことだ。

「凄い、先生が右腕を使うなんて」

思わず千代が感嘆を洩らした。
夫婦が驚きで顔を見合わせた、

「…八千代様が右腕を使うというのは確かに「それなりの事態」と言うこと…
 ウチの子達には「そういう実力の種がある」と言うことで宜しいんですか」

「と、思いますよ、あ、先生が戻ってきます、先生、どうでした?」

僅かにでも八千代に本気を出させた、その事は若い二人にとってはとても充実した気分になったのだろう
八千代を礼で見送った後、満足げに汗を落としに行った。

「実戦であの間合いから始まることは先ず無いとは思うのですが…
 …稜威雌の間合いだと近すぎるのでもし実戦で似た立場に追い込まれたら負傷覚悟かも知れませんね
 天野の方が師を務められていると思うのですが、いい筋ですよ」

そこへ千代が

「二人の息が余りにも合っているので二人で三人分以上の力は出ていた感じですね」

「ええ、と言う訳です、詞の方も仕上げに入っていますでしょうし、
 そろそろ本格的に祓いに出ても良いと存じますよ」

八千代が戻ってきてお茶を一口飲みながら言うと、夫婦は喜んだ。

「双子は地方によっては不吉とも言われますが、数奇な運命で妻に宿り腹を痛めて産んだ子、
 意地でも二人まとめて育て上げるとやってきた甲斐もありました、有り難う御座います」

夫の反町(そりまち)が改めて八千代に頭を下げる。

「何を仰います、実際に乗り越えたのはお二人です、私はそのほんの最初に関わっただけです」

「その最初が大きいのではありませんか、もう感謝してもしきれません」

鈴谷も続いて頭を下げる。

「参りましたねぇ…しかし私も…少々体が重くなってきたと言いますか、年ですかねぇ
 体を大きく動かし躱すような技で無く小手先に頼ってしまいました」

もうこの時八千代は三十五歳(満三十四歳)、確かに色々曲がり角を過ぎる頃だ。
鈴谷がそこへ

「初代、二代と三十路を迎えられずに十条の稜威雌使いは果てられているのです、
 増してこの戦国の世、八千代様は素晴らしくお強いと思いますよ、力だけで無く
 知恵や機転とその御手で生をつかみ取ってきたのです、素晴らしいではありませんか
 小手先の技でやれるという事は」

「そうだと良いのですが…先代先々代ほどに祓いの面では苦労していませんしねぇ、どうなるやらです」

こうして大和への顔出しもつつがなく終わり、実家にも当然寄る八千代と千代。
しかしここに悲しみも待っていた。
丁度父がもう今際の際という所に出くわしたのだ。

急に衰えが来たので使いを遣ろうかと思っていたところだと頼は言った。
父、巌はもう八十を越えているのだ、世間的には大往生と言っていい、

「とと様、八千代に御座います」

朦朧とする父にそう声を掛けると、「…ああ…」と余り声を絞れないが
力の入らない体や顔に僅かに喜びを浮かべ八千代を迎えた。

回らない呂律で一人一人に感謝と愛を伝える父、
甲も飛んで(祓いではないのでこれは比喩)帰ってきていた、その傍らには甲の妻と子も居る。
遅い結婚に遅い姉弟の誕生とはいえ、孫を見るまでは出来ていた巌は満足だった。

「ただひとつ、八千代、あの本を…」

「あの本…?」

「読み聞かせておくれ…あの時のお前には、少し速かったあの本…」

三十年近く前の記憶が蘇る、当時生まれて間もない頼や生まれても居なかった甲には
判る術が無いが、八千代は頷いて本棚を見回し、一冊の本を手に取る。
それは漢文の原書、今の頼と甲には特に何に秀でていると言うことの無い本であったが
八千代がそれを父の枕元で何か本に詞を込め読み上げ始めた。

漢文を日本語の文章として読み上げる八千代、もう何処の何に支えると言うことも無い
淀みなく流れるように八千代はそれを読み上げる、その一字一字に何が込められているのかも
もう八千代はよく知っている。

父は大変満足だという顔をして聞き入りつつ、その体が光に包まれ、その光が体から抜け
見守る家族の前に立つ、それは巌の魂。

『いやぁ、臨終の場に八千代が居合わせてくれて良かった、死に際して
 言葉が不自由になっては長い文章など組み立てられぬからなぁ、
 儂は逝くよ、皆有り難う、達者でな
 そして八千代の言うに儂は仏教で言う輪廻の輪の中に戻るそうであるから、
 笹子、これだけは言いたかった、もし、何かの折また生まれ変わることがあっても
 お前と一緒になりたい』

笹子はもう涙で言葉にもならなかったがそれに大きく頷いた。
巌の魂は満足そうに頷き

『今度はもう少し年が近くなるといいな』

笹子は声を振り絞り

「そう時間は掛かりますまい、少しの間お待ちください」

『なに、ゆっくり待つよ、お前はひ孫を抱いてから来なさい、家族とはいい物だ』

笹子は立ち上がる、八千代は朗読を続けながらもその右手で母、笹子に触れると
笹子の体も淡い光に包まれる、本来触れあってはならぬ魂と肉体を持った人間の橋渡しの詞、
笹子は巌に抱きつき、巌もそれを包み込む。
父の体が少しずつ昇華して行き

『八千代も、立派になったな、儂より先に逝かなかったのは最大の孝行じゃぞ
 頼も、甲も、嫁さんも千代さんも、皆達者でな』

そうして、父巌は還っていった。
一番最初に誰よりも大声で泣いたのは千代だった。
大往生とは言え、戦などの動乱ではなく天命を全うしたとは言え、実の父母とそう変わらない
月日を「身内」として過ごしたのだから、もうそれは心からの悲しみであった。

笑って見送りたかったが、矢張りいざその時が来るとみな涙していた。
まだ幼い孫も、死という物を実感して泣いた。
もうじいじは動かないのだ、その手のひらで撫でてくれることも無いのだ。

四條院家の皆も押し寄せ、通夜と葬式で数日を実家で過ごした。
いざ、父の体も土に還すのだという段階になって一番大泣きしたのは八千代だった。
千代も判る、学業や知識に関しては八千代の先生でもあるし、「とと様」という言葉は良く聞いていた。

葬儀というか埋葬に関しては一般的に穢れの精神から非人…神との橋渡し…詰まり神職の領分で
四條院の家に詰めていた天野を含む若手達によって執り行われ、本当に父と最後の別れとなった。

しかし生きている側は生活をしなければならない、増して父は生を全うした大往生だったのであるから。



十月に家に戻った後いつもこの時期臨時で家や畑の世話をしてくれる甲斐の二家にも土産と礼をして
数日は少し気も抜けたが、道々に合う近所の人々に触れる内に笑顔も取り戻す、
永禄十一年(1568年)も暮れにはまたいつものような日常に戻っていた。





永禄十二年(1569年)、正月にはもう家の神社も認知されていたので前年の餅つきからの三が日を越えて
鏡開きから節分、春を迎えて田畑を整え種や苗を植えて行く。
八重桜はすっかり大きくなり、見事な花を咲かせ春の盛りを告げ、
散る頃には初夏が近づいていることを告げる。

時々祓いの助けに呼ばれる、この頃になると武田も近くの駿河(大体静岡)や相模(神奈川の一部)と
たびたび戦による衝突からの広い範囲に及ぶ無念の祓いがあり、
近場での応援が殆ど、何をしてもご飯時には家に帰ってまた仕事に赴くと言うような日々。

油断のならない情勢の筈なのに、どこか充実した日々。

そして夏、今度は武田は小田原城攻めなどでまた戦であるが、そろ色づき実を結び始めた作物、
八千代はそちらを優先させて貰う(代わりに収穫物を甲斐の二家にも渡す)といういつもの年だ。
葡萄を潰して酒にするという作業は子供からの受けが余り良くない物の、
それらを樽に詰め熟成に入り、他の住民の田畑の手伝いなどで秋を過ごす、いつもの冬に向かう

はずであった。



十月初旬から中旬にかけて結構近い相模の三増(みませ)峠を基点とした戦があった。
近いと言うこともあり八千代は警戒したが、村に動揺が伝わることを良しとしなかったので努めて
普段通りにしていた。

「富士はいいモノです、毎日見ていても美しい」

だいぶ寒くなってきて空気も澄んできた頃、その日はまたくっきりと富士山が見えていた。
千代は笑って

「私、生まれた時からほぼココですし、意識してませんでしたけど、先生のご実家や
 丘杜や大和に行くようになって「ああ、帰って来たなぁ」とは思いますねぇ」

八千代はいつものように富士に一礼をして

「美しい山です」

閑農期に入ろうというこの時期、いつものように子供達やその親世代もやってくる。
親世代の中には子供の頃からココに通っている者も居る。
そういう人は八千代を「てならいさん」ではなく「先生」と呼び続けていた。
もう、多少漢字交じりの文も読み書き出来るように成って居たし、実際それで陳情書なども
認められるように成って居たし、幾ら戦国時代とはいえ、先ずは民と言うこともあり
お上も無碍には出来ない、むしろ一揆などを起こされるよりは交渉で済む方が余程マシである。
千代の提案から始まったてならいさんとしての活動はもうすっかりこの地域では定着していた。

充実した一日が始まる

そう思っていたのに、それはやって来た。

発砲音と共に手習い小屋の近くに着弾!
この辺りは家がまばらな地域だったのでばらばらに逃げては余計に不味い!

「皆さん、小屋に避難してください、大丈夫、私が屹度お守りします!」

混乱に陥り掛けた時に「先生」の一言は冷静な判断を取り戻す一助になった。
来る途中の者もとりあえず急いで八千代の手習い小屋の方へ向かうし、八千代は詞を展開し
銃弾を受け止めていた、加えて火矢も飛んでくる、それも守りの壁は受け止めていた。

村民を小屋に誘導しつつ、千代が

「先生…これは…」

詞による守りと、鞘に収めたままの稜威雌での防御をしつつ八千代は振り向かないで

「恐らく…以前ココを襲った…詰まりあなたを襲った武者達も絡んでいるのでしょう、
 私を「甲斐の守り」として乱取りとしての対象では無く、潰すべき拠点と見做したのでしょう、
 いえ、私を倒した後なら今は収穫も終わってひと息ついた頃、乱取りも行われるのでしょうね」

「そんな…! 先生、私も…」

「なりません!」

八千代は千代の参戦を厳しく禁じた。

「なりません、数が多すぎます…、ココで二人で守るよりは…千代さん、
 あなたは中で皆さんを落ち着かせてください、そっちの方が大事です!」

「先生…」

「大丈夫、戦となれば話は別ですよ、降りかかる火の粉は払います、
 貴女を含めたココの皆さんは私が守ります、何があっても!」

そう言われると小屋の中も大混乱であるし、言われた通りにするしかない。

「先生、せめてご無事で…」

八千代がそれに応えるのに振り返った瞬間、少しだけ千代は八千代に口づけて避難誘導と
小屋の中への声かけを始めた。

八千代がふっと眼を細めた、数時間で退散してくれると良いけれど…
悪霊と違って一気にいなせる数には限りがある、そう思い銃による攻撃と、火矢による攻撃をしのいで
とりあえず近辺の住民全部が小屋に避難し

「先生!」

千代が声を掛けると、八千代は漠然と「範囲を守る」のでは余りに労力が要るので
少しずつ引きながら(斬り込みを呼び込むという誘導でもある)小屋だけを集中的に守るようにした。
しかしじりじりとでは時間も掛かる、一気に小屋の側に行けるように少し後ろを向いた時だった。

八千代の感覚で自分に命中する飛び道具の感覚があり、鞘に収まったままの稜威雌でそれを弾く
行動に移った時だった、八千代はそこで最大の間違いをおかしてしまった。

それが火矢であったなら矢の長さの分ちゃんとはじき返せたであろう、しかしそれは銃弾!
僅かに軌道を逸れたに留まったそれが八千代の右側頭部にめり込んだ!

しまった、そう思った時には左半身の力の入り具合がおかしくなっていた。
よろめきながら八千代は

「…矢張り…小手先の動きだけで済ませるように成って居たのは間違いでした…衰えましたね…」

「先生ッ!!」

千代の叫び、

「大丈夫! ちょっとした怪我です! 大丈夫、皆さんは屹度守ります!
 千代さん! 慌てないで、でももし…もしの時はこれを…」

何とか戸までやって来た八千代は千代に押しつけるように稜威雌を渡し

「これで、頼みますね…」

「そんな、先生!」

千代の声を振り返りながら聞きつつ、八千代は戸を閉め、詞により小屋を完全に守れるようにした。

「今から頭の傷を治す暇はありません…左半身が思うように動きません、今の私に
 稜威雌はもう振るえません、でも詞なら使える…、幸い言葉に影響はまだ無いようです
 千代さん、落ち着いて…ココで貴女が踏ん張らないと何もかもがお仕舞いですよ」

そう言われると、千代も稜威雌を握りしめ不安に怯える村民をちらと見回し

「…判りました…でも先生…!」

その時にはもう斬り込みもやって来ていたようだ、八千代は趣味で硝子なども作っていて
窓に幾つかはめ込んでいたので千代も住民もその様子を見て愕然とした。
それはもういっぱしの戦である。
数はそれほど多くないが、落ち延びてきた訳では無く明確にココを狙った襲撃である事を思わせる
真新しい装備や扮装、八千代の言う通りココを占領、或いは殲滅するつもりなのだろう。

「…降参した方がいいんじゃないのか?」

大人の一人がそういう、死ぬよりは良いのでは無いかと
千代は歯を食いしばり

「そうしたい人は…全てが終わってそれでも相手方が残っている時にお願いします、
 私と先生は…意地でも戦います…!」

思うように動かない左半身ではあるが右足と祓いの右手で一人また一人武者達をいなし
そして明確な殺意のある者は容赦なく殺した。
その殺し方も相手の武器の刃部分を折り、右手指に挟んで切りつけたり、投げつけ
眉間、のど元、といった確実な急所に確実に当てて殺していた。

とはいえ、多勢に無勢な部分もある、八千代は近距離からの銃弾や
動きにくい左半身への攻撃で左腕も落とされ、体のあちこちに矢も受ける、
しかし、動きにくいのは肉体、左腕も祓いの腕にすればまた盛り返す、

倒した相手の槍や太刀を拾い上げては槍は遠投で弓や銃を持つ者に的確に当て、
百人ほど居た軍勢が半分ほどに減じた。
すると相手側も無碍に突っ込むのでは無く、射撃武器を持つ者を失わないように壁になり、
遠距離からまた火矢をメインとした攻撃に移った。

手習い小屋以外の至る所に火が回り始める、乾燥する時期に入っていたので火の周りも速い。
十数年、積み上げてきた何もかもが手習い小屋を残し燃え始めて居た。

折角植えた桜も。

千代は悲しみと共にこの世を呪った。
稜威雌を握りしめただひたすらに八千代が生きて戦いが終わることを祈った。
でももう絶望的だろう、少なくとも無事では戻れないだろう、涙で一杯の千代が稜威雌を抱え込むと
何かがそっと自分を慰めるように撫でる感覚を覚えた。
でもそれは生きた人のそれでは無い、多分、稜威雌だ。

外の業火の中から八千代の声がする。

「遠くから火で包めば後は時間の問題とでも思いましたか…?
 私はそんなに甘くはありませんよ…私の全てを奪おうとする者…容赦は致しません…!!」

最後の方はもう聞いたことのない八千代の心のそこからの怒りの声だった。
窓から見える炎が生き物のように動き、その勢いで遠くの軍団に襲いかかる!
やや離れた向こう側で阿鼻叫喚の事態になっているのはその断末魔の声で判る。

「一人たりとも逃がしません…既に応援も呼んであります…戦で祓いに直接手を出すなど
 あなた方には既に生きていてもしょうがないほどの罰も下ることでしょう…!
 せめて…襲いかかった私の手で輪廻の輪からも外し、永遠に消え去って貰いましょう!」

八千代自身も炎を避けきれず、防ぎきれず業火の中で燃え上がりつつある、
千代はもう見ていられなかったが、子供達やかつての教え子などが先生、てならいさん、と声を掛けている
炎が勢いを増すごとにその炎を操り、攻め込んできた者達に浴びせる、逃走に入って居ても容赦なく
それらを一人一人焼き殺して行く、そして火の勢いも少し弱まったかという頃には
もう攻め込んできた者は一人残らず焼き殺されたようであった。

「まだ…外に出ないでください…まだもう少し…」

八千代の弱い声が聞こえる、ちょっとした火事くらいなら詞で消せるのは村民も知っている。
それも出来ないほどに八千代はもう弱っているのだ。

そして守りの青い光もまだ小屋を守っている、戸も開けられないようにしっかりと封じられている。
でも、火の勢いが弱まるにつれ、その守りも弱々しくなって行く、
八千代の命が終わって行くのが感じられる。

『千代さん…』

千代の心に直接八千代が語りかけてきた、千代が顔を上げる

『稜威雌を…宜しくお願いします…そして…これは…祓い人にあってはならないことと知りつつ…』

少し矢張り言うのに戸惑ったようだったが、千代は心の中で答えた、強い意志で答えた。

『判っています…全部任せてください…! それが済んだら必ず…!』

『有り難う御座います…申し訳ありません…』

『何を言っているんですか、私は真っ平ですよ、歩き巫女だの隠密だのは
 例えそうで無くとも…もう私の行くべき場所は一つ、たった一つです』

『ああ…抱いてしまいたいほどに愛おしい』

初めて抱かれたあの日の言葉、それっきり八千代は何も語ってこなくなった。

とうとう、小屋の守りも消えた。

もう全てを受け入れた、千代は冷静に立ち上がり、

「せめてです、見ないで上げてください、皆さん家に帰って今後に備えてくださいね、
 武田様に陳情なさるのもいいと思います、私は…少々立て込みますので…」

小屋にあった八千代の千早を手に取り、戸を開け座った格好のまま焼けて死んだ八千代の遺体に
それを掛ける千代、見えないようにそれとなく隠しつつ

「さぁ、今まで先生に居場所を与えてくれて有り難う御座いました。
 どうか、これからも何かの形で代々読み書きは出来るようお願いします、知は力、先生の信条です」

千代が頭を下げ、皆を送り出す。
千代は八千代だけを隠した。
その戦の痕跡…小さいなりに立派だった社、もう十数年年末年始を楽しく過ごした社も焼け落ち、
八重桜も焼け落ち、何より八千代と千代の住居…基は千代の家族の住居だが…
それも焼け落ち…屋根裏で飼っていた蚕も全滅間違いなし、一部畑まで焼けている。
そして転がる襲撃側の焼けた死体、それは村はずれの方まで累々と続いていた。

蛇のように何処までも炎で追いかけ、襲撃側を一人残らず焼き殺した。
体の中に住み着く寄生虫でも無ければ一寸の虫にも五分の魂を地で行っていた八千代が
その人生の最後で鬼神の如く怒りを爆発させた、それはそれで恐ろしい光景なのだが、
引き替えに全てを失ったのだ、誰もが八千代に同情するし、手を合わせて拝んだり、
礼をしたり、言葉にしてお礼にしたり、すすり泣きの聞こえる中村人が去って行く。

千代は声を上げて泣きたかったが堪えた。
泣いてしまったら何もかも流れて行きそうで、意地でも堪えた。

村人が帰る方角とも、攻め入られた方角とも別な方面から二人の男女が跳んできた。
跳んで来るなり惨状を確認して、二人とも膝を落とし、間に合わなかったことを千代に詫びた。

「相模や伊豆、駿河を巻き込んで…武田のお殿様も近場で戦を始めたのです、お二人はその各戦場で
 無念を祓っていたのです、何を謝る必要がありましょう、むしろ、先生の危機に何をしても
 参じて戴けたこと、有り難う御座います」

千代が八千代に成り代わって二人に礼を言った。

「天野様、四條院様、少しだけお時間をください、お頼みしたいことがあります」

「何でしょう」

「先生を故郷に帰して差し上げたいのと…、大和の方への連絡をお願いしたいのです
 流石に今京の付近は物騒ですので…稜威雌…お返ししなければなりません、
 でもそれは…私からお返ししたいのです、ですから私も先生の故郷へ行きたいのです」

「判りました…此度の出来事は古来より続く現世(うつしよ)と祓いの暗黙の了解を破っております、
 武田様にもきっちり伝えましょう」

「お願いします」


第八幕  閉


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