L'hallucination 〜アルシナシオン〜

CASE:Twenty

第十一幕



「こないだ嵯峨丸がアタシの仮住まいに飛び込んできたよ」

永仁年間も方々で馴染んできてあれからまた少し、八重は仕事で何と蝦夷まで来ていた。
岩穴を少し整理した仮住まいに木と藁をこれでもかと敷き詰め、
薪を轟々と焚き付け八重自身も幾重にも毛皮を纏っていた。
今は春間近とは言え、その日は寒風吹きすさぶ道北。

それとは関係なく穏やかな稜威雌の中、例によって縁側にて梅はこぼした。

「私からだけでなく貴女にも確認取りたかったし知って欲しかったんだろうな
 とうとう始まったか」

「益々体は丸く、そして胸も可成り膨らんでいるよ、
 それでもまだ激しく痛がっておるから、お前さんの言うとおり
 ありゃだいぶ立派な躰になるだろうねぇ」

「シモの方はどうだい」

「そこはまだ…だが体の中では確実に進んでいるね」

「そうか…嵯峨丸の事だから普段は無理矢理押さえつけて
 未だ男のままであると大丸の前では振る舞っているんだろうな」

「大丸も別にやって来て嵯峨丸を心配しておったよ、
 怪我をして居るわけでも無いのにずっと胸に布を巻き付けておるようでね」

「婆さんに聞く事でもないが、藤枝殿は元気かなぁ、
 どうやら無事生まれたようではあるが」

「ああ…、若い二人が若さに証せて無責任を言ってしまったと
 それも悔いておったが…ただ、責任は果たしておるようじゃよ、
 あの辺の祓い代行や、修行中の二家の後押しなどなど…
 お前さんの選んだ道や言った事を骨身に確実に大人にはなってきておるな」

「そうか、もうしばらくは私があの二人に絡む事もなさそうだ」

「果たしてそうかねぇ」

「うん?」

「いや、もうここまで来たらアタシにも先は見えないよ、
 嵯峨丸の変化がどのくらいで坂道を転げ落ちるように一気に行くかはさ」

「うん…そうか、私も三十路が見えてきた、流石にもう少ししたら
 体も重くなってくる、早まる分には歓迎するよ」

「いいのかい、それで、折角のあの子を残して行く事になるかもじゃぞ」

「基より私はただの人、稜威雌は刀とその神、釣り合う相手ではないよ」

「残酷だね、罪な女さ」

梅の一言に八重はあぐらに腕を組んで上を見上げ遠い目で

「…ああ、だが…こればっかりはな…早いか遅いかだけの違いだし」

「まぁ…これで京十条出身の祓いにはもう一つ意味が出来たわけじゃ、
 そう言う意味では継ぐ物が出来たわけでもある、果たそうとする魂も生まれよう」

「そうあって欲しい、そうやって、いつか…」

とばかり言った頃、寝所から結構疲れ切ってふらふらな稜威雌が下着だけを羽織り

「八重様…?」

梅が含み笑いをしつつ

「何だかんだ気持ちも抑えられないもんだねぇ」

梅の存在に気付かず可成り油断した姿で八重の側まで来た事に稜威雌は真っ赤になって
八重はそんな稜威雌を自分の横に座らせつつ、下着の開けないように、
優しく左手で抱き寄せるようにした。

「寒いからな、暖まりたくてね」

稜威雌は恥ずかしすぎて八重の左隣で八重に寄りかかりつつ顔を隠す。

「…しかしまたなぜこんな北の果てまで来たモンだね」

「そこがまた色々複雑なんだな、元々蝦夷…その中でもこっちの言葉でアイヌ、
 元々東北からこのでかい島辺りに居た訳だが、南からは日ノ本、
 あと東の方からずっと海を斜めに島が続いているんだが、そちらか辺りからも
 人がなだれ込んで…さぁ、鬱憤があったのか何なのか、アイヌがこの島より
 更に北の島から大陸の方へ喧嘩売りに行ったようでね、相手はあの元国だ」

「たぁいえ、アイヌの統率じゃあ「国」を広げるには至らんじゃろ」

「そうなんだよな、示威なのか、それとも地域での立ち位置を上げるためなのか
 そこは判らないんだが、元と押し合いへし合いがあったようなんだ
 で、今組織としての弱さで押し込められて、この直ぐ先の島(樺太)まで
 砦が築かれちまったようでね、日ノ本としても黙っているわけにも行かない」

「監視かい」

「後で引き継ぎするが…ちょいとこちらもこれ以上は南進させないよという意思表示と
 そしてこれが本題なんだが、丁度いい、婆さん、手伝ってくれないか」

「なんだい、ここまでは前置きかい」

八重は呆れる梅に苦笑気味で

「詰まりな、こんなだだっ広い島でも人が住めるところとなると限られる。
 そこでじゃあ押し合いへし合いの末にアイヌがはみ出たり押し込められたり
 と言った事が発端ではあったんだろう、北の言葉で…何と言ったか
 か…そう、「かむちゃつか」とか火噴き山の土地があるんだそうだが、
 そっちからの風習がこっちのアイヌに取り込まれたようなんだな」

「ふむ、物騒な奴らなのか平和な奴らなのか判らんな。
 で、どんな風習なんだい」

「これも…「いおまんて」だか「イヨマンテ」だか…
 ようはヒグマを神の御使いにして神からの賜り物として春先に狩り、
 あるいは小熊から育てた熊を絞めてその御身を有り難く戴きつつ
 神に対して霊送りをするという祭のようでね…
 あ、狩った方は呼び方が違うんだったな…何と言ったか…」

「いいよいいよ、この際は関係なさそうだ」

「うん、済まないな、で…伝わって広まった風習はそれはそれでいいんだが
 育て方の加減を間違えたようでね、イヨマンテとして送るはずのソイツが
 アイヌの村ごと破壊して逃げ出したんだそうだ、
 人の味を覚えて春先とは言えこんな天気も珍しくないここじゃあ
 野放図にさせておく訳にも行かないが、何しろ立つと一丈にもなるような
 でかいヒグマらしい」

「何をどうやったらそこまで育て過ぎちまうんだい」

八重が苦笑しつつ

「知らないね…まぁ逃がしたのがいつか判らない、ひと夏ふた夏過ごしたのかもな。
 で、救援要請が伝って伝って私の所まで来た、
 ついでに元国の出方を探り、怪しい動きをするようなら牽制する事も込みで
 …お内裏様の願いと言えば聞かないわけにも行かないからなぁ」

「体のいい押しつけじゃあないか、アンタもお人好しだね」

「まぁそれでも人外の力を持つ事は確かだからね。
 もし元が北からまたやって来るようなら兵は揃えなくちゃ為らない、
 そういう多人数の戦争ばかりは流石に祓いの領分じゃない、
 だから先ず人食いに穢れた熊を祓ってくれってね」

その八重の言葉に梅は閃いたが、慎重に

「なるほど、アタシがわざわざ蝦夷くんだりまでお前を辿ってきた理由を作ってやる
 と、こう言う訳かい?」

「そんな横柄なモンじゃないw それに…ヒグマ程度に負ける気もしなくてね
 それなら、この辺りに漂う無念でも何でも押し固めて魔にして貰った方が
 こちらも本来の仕事として動けるし、貴女も仕事をした事になる、
 一石二鳥だとは思わないか?」

「ヒグマを「その程度」呼ばわりかい、まぁそうだろうね
 アンタほど狩りで野営ばかりしてる祓いなんてそうそう居ない。
 あの二人でさえ結構町や村は巡っているからね」

「油断は良くないが…少なくともただの生き物より手強いのを
 それなりに沢山相手にしてきたからな…何を今更というか…」

「確かに、アタシもアンタに何度か押しつけたね、じゃが一つ忠告するよ、
 一丈まで膨れあがったヒグマを魔にするとなると、
 アンタ、怪我の一つや二つでは済まないかも知れないよ」

八重は梅の方を向き、不敵に微笑みながら

「願ったりだね」

「やれやれ、ホントアンタは酔狂だねぇ」

「どうせやるなら、最高に楽しみたいんだ」

「よし、判った、少し待っておくれ、とびきりの悪霊を連れてきてやるよ」

「待ってるよ」

稜威雌の世界から梅が出て行って、穴蔵からも出て行った。
八重に抱き寄せられ静かに話を聞いていた稜威雌が心配そうに八重を見上げ

「八重様は何処か死に急いでいるように見えます…」

「生き急いでは居るかな…死ぬ事はその瞬間まで受け入れはしないよ、
 稜威雌、お前は私の命だ、だが私は祓いでお前は刀なんだ
 使わなければ、私が使わなければお前の意味もない、
 まだまだ、私にはお前に見合うだけの力があるようにも思えなくてね」

「そんな事はありません、私が精として、ある意味神としてこの刀に宿れた事
 それそのものがこの刀と貴女様のお力を示した物です」

「だとしたらもっと…もっと高みを目指したい
 年を取って上手く動けなくなる前に…これ以上は努力に対する実入りが少ないと
 そう思えるまでは、私は戦い続けたいのさ、それはきっと、
 お前ももっと、誰にも文句の付けられない神へと導く道でもあるだろう」

「貴女様へ添い遂げるのに、そこまで必要なのでしょうか…」

「でなければ私が祓いである意味も、お前が刀神である意味もないよ、ただ稜威雌」

八重は稜威雌に向いて両手で包み込んでその額に口付けながら

「それは生きるためなんだ、そしてお前を愛しく思うからなんだ」

二人は少しの間口づけを交わし、浸った後

「さぁ、服を着て、お前の力が必要だ、私と共に「生きて」おくれ」

切ないながらも確かに「刀とその持ち主の絆」として燃え上がってゆく心も感じる。
稜威雌の目に力が込められ、そしてもうすぐやって来るだろう戦いに備えた。

吹雪は止んだがカラッと晴れた月夜、これがまた半端なく寒い、
空気の中の水(水蒸気)が凍ってキラキラと月光を纏い舞っている。

近づいてきた梅と魔の気配に八重は林の中の少しばかり開けた場所に立つ。
木をなぎ倒しながらやって来るそれ、もはやヒグマの形をした災いそのもの。

八重の口の端がどんどん上がってゆく、目も爛々としてくる。
上手く開かない右目も微かに開き、その目も喜びに満ちあふれている。
梅が先に到着し、八重に向かって言った。

「思った以上に強力になっちまった、アタシの言う事も半分聞かない」

梅が飛び退ると、ヒグマの形をした災いはその位置に爪を突き立てていた。
もはや、敵も味方も判別不能なほどのそれ、大きさも魔に昇格した事で一丈半

「八重、コイツを越えたところで、上には上が居るんだよ」

「判っている、私の身の程なんて所詮その程度だろう、と言う事も…だが…」

「登れるところまで登ってご覧、何かが開けるかもね」

「そう願いたいね…」

災いに自ら歩を進め、いよいよ互いの間合いに入る…!



春、八重は刀工の別棟に居て窓から咲き誇る山桜を眺めていた。
そんな時に、祓いの通達で嵯峨丸の声が

『八重様…! これは…今僕に何が起こっているのでしょう!』

声の調子からして多少の具合の上下はありつつ、生命力は感じる声なので
八重はやや呆れ顔で

『それだけじゃ判らないよ、動けるかい?』

『は…はい…あの…今どちらに…』

『刀工だよ、稜威雌でない方の野太刀に直しが必要になってね』

『…え、八重様ほどの手練れがそのような事になるとは…』

『おいおい、私の事はいい、私に急な通達と言う事は何か詳しく見て欲しい事がある
 と言う事だろう? 今どこに居るんだい』

『幸いにも…そう遠くない場所に、僕がそちらに…急いで診て欲しくて…』

『体力はあるようだ、気をつけておいで』

そう遠くない、か、八重は一考しつつどのくらい待てばいいやらと考えを巡らし
少し気を抜いて酒などを飲んでいたので祓いで酔いを醒ました方がいいのかなぁ
とか考えつつ、結構な早さで嵯峨丸が気配隠しをしながら来るのが判る。

「…早いな」

八重は呟き、この焦り方だと危ないと思い、別棟の窓から屋根に登った。

とにかく八重だけが頼りの綱とばかりに必死に飛んでいる嵯峨丸の目に八重が見えて
そして八重が抱きかかえて受け止めるとばかりに両手を広げ嵯峨丸を屋根の上で
向かえていた、もう、嵯峨丸はその勢いのまま八重の胸に飛び込んだ、涙目で。

「一体僕の体、どうなるんです、こんなに血が…血が…」

「落ち着け、部屋に行くよ」

すっと嵯峨丸をお姫様抱っこして部屋に戻りつつ、荷物から換えのさらしを
取り出し、それを敷きつつそこに嵯峨丸の腰が来るように寝かせた。

「え…判るのですか」

八重は淡々と嵯峨丸を脱がせながら

「判るよ、別に異常な事じゃないからな」

「…はい…?」

八重に脱がされて恥ずかしいという気持ちもなかった、もうホントに藁にもすがる思い。

「状況からも判るしにおいでも判る、異常じゃあないんだがお前の場合は
 基が基だ、少し確かめさせて貰う…あと…今はそんな物で胸を締め付けるのも良くない
 とにかくお前がどれほど恥ずかしがろうと隅から隅まで看させて貰うよ」

と言うと問答無用に嵯峨丸を全裸にしてしかも下半身の大事な部分がよく見えるように
両足を持ち上げたりとか確かに以前の嵯峨丸ならパニックだっただろう。
だが、八重の真剣な目(右目も開くだけ開けていた)と体の調子を整える詞が
主に下腹部に当てられていて、嵯峨丸はもう恥ずかしいも何も無く
八重に全幅の信頼を置いて指示されるがままに従った。

「…凄いな、竿の方も作り直されている、袋も玉もなくなってる。
 完璧に女だよ、嵯峨丸、お母さんや妹の月の物は知らなかったのか」

「つきのもの…女性に特有の…と言う事くらいしか…母は祓いでもありますから…」

「そうか、そうだった、祓いであるからにはその辺りは大崩れしないよう
 整えなきゃなんだよな、私もそうだったが結構な年月の間にすっかり頭の隅だったよ」

「それは…歳にして幾つくらいから…」

「人にも依るんだけどな、早ければ十を前に、遅くとも十四五には普通はね…」

「妹がもうすぐ十四ですがまだ…」

「体弱いんだっけ、うん、そういう理由で遅れる事はあるが…今度妹の方も見に行こう」

「僕はとうとう「僕」とは称せないようになったんですね」

「別に自称が何だっていいじゃないか、オレという人も居る、というか
 私がそうだったしね、色々あるよ、急に言葉なんて直せる物じゃない。
 自分を僕という女がいたっていいじゃあないか」

「そ…そうでしょうか」

「大丸と最後にやったのはいつだい」

「え…、えと…ひと月ほど前でしょうか…その後僕ちょっと寝込んで…そうしたら今日…」

「…なるほどね、その間で集中的に造り変わったんだな…矢張り四條院の血だ、
 その胸押さえるの大変だろ…」

「はい…」

「そしてそうなるとお前はもう大丸の子だって産める訳だ」

嵯峨丸がハッとした、そうだ、女に成り代わったと言う事は「そういう事」なのだ。
八重は嵯峨丸の着物に付いた血などを清め落としながら優しく

「素直におめでとうなんて言葉は受け取られないだろうが、
 でも為ってしまった事なんだ、悔いだけは残さないように、いい子を産んでくれ」

やや呆然としつつ、嵯峨丸は微かに「はい」と応えた。

「抜刀術や太刀筋の方は…まだ余り時間も経っていない、完全ではないだろうが
 そこは何とか修行を続けてくれ」

嵯峨丸は起き上がりつつゆっくり頷いた。
八重はそこに着物を羽織らせてやり、結構甲斐甲斐しく面倒を見ている。

「詞を教える、内容は分かるね」

「あ…はい、体を整える…」

「よし」

何だかんだ少しずつ現実を受け止めて思考を前に向けている嵯峨丸に色々と
主に祓いの女性専用と言える言葉を幾つか授けてゆく。
因みに男向けという物もある。

日も傾いてきて体調も戻りつつある嵯峨丸に折角来たのだからと稽古を付ける八重、
その間には狩りや採取、買い出しに出掛けていた大丸に嵯峨丸が八重の所に
やって来ていて、夜には戻る旨を祓いの通達で知らせていて、
八重はこの時膨れあがった嵯峨丸の胸や体つきから更に剣術をもっと
こうした方がいいとか指導をしていった。

嵯峨丸は必死だった、このままではひたすら大丸の弱みになりかねない、
嵯峨丸は必死に吸収できる物は全て吸収しようと一種鬼気迫っていた。
いつか大丸が言った「暇は無いが時間はある」という言葉、
もう寝ても覚めても全て修行と言わんばかりの気迫だった、そして
嵯峨丸の体も精神力もそれに急激に追いつこうとしていた。

変わってしまった使命を受け止め覚悟をした、その感触だ。

「もうその辺だ、汗を落として帰りな」

夕刻、流石に息も上がりつつあった嵯峨丸に八重は声を掛けた。

「中々いいぞ、私の立ち位置を変えさせるほどに成長した」

「立ち位置を…あ…そういえば…」

八重は今まで距離を詰めたりする以外はほぼその場から動かない、
動いても最小の動きから最大の抜刀で全てを決める人だった。
今足下を見て周りと確認すると、そんな八重を幾らか動かした跡がある。

「必死になるだけじゃない、ちゃんと私という相手をどうしたら倒せるか
 どうしたら押せるかといういい太刀筋に立ち回りだったよ
 私も少々気が張って流したいんだ」

八重がちょっとシケたツラをして嵯峨丸に言った。
自分の変化に驚き戸惑うだけではない、それを受け止め先へ進む強い表情を嵯峨丸はした。

「いい目だ」

そしてヤレヤレと取り敢えず上だけは脱いでさらしを巻いた上半身の素肌を晒し
汗を乾かす八重に、その時になって初めて嵯峨丸は八重の体をはっきり見た。
少なくとも上半身、凄まじいほどの深い傷跡が刻まれていた。
どれほど治癒の名人だろうと、それが「治癒」である限りもう消せない
深い酷い傷跡が幾つもあって嵯峨丸は息をのんだ。

お構いなしに湯殿に入って行き灯りを点して湯浴みを始める八重、
嵯峨丸も少し遅れて入ったが、下半身というか足も酷い有様だ。

「八重様…その傷、つい最近のですよね…若しかしてまだ治りきっていなかったのでは」

「うん…? まぁ多少はね、でも命を賭ける場で治りかけも何も無い
 負ければ死ぬんだ、それだけの事さ」

同情など無用と言う事だ、嵯峨丸はそれでも

「一体何があったのです、八重様ほどの方が…こんな酷い怪我を…」

八重はそこで梅との会話内容まではボカしつつ、梅に頼んで人食いの巨大ヒグマを
更に魔に昇格させて貰って戦った事を告げた。

「勝てたんですか…」

「だから生きているよ」

「でもその左手首、右腕…右足…脇腹から腰に掛けて…
 どう見ても食いちぎられたか引きちぎられたか…そう言う傷跡です…」

「祓いだからって言うのもあるンだろうね、死なないモンさ
 最後は口に稜威雌をくわえ、残った左足でここぞって当たりを付けて
 なんとかアイツの首を落とせたよ」

「そんな…両手が使えず殆ど体も動かせず口と足一本で…」

「…やればやれるモンさ…一発で首を落とされない限り、何が何でも
 最後まで生き延びて勝つ事を渇望する、お陰で普段使いの野太刀は
 直しが必要になってしまったが、稜威雌には刃毀(はこぼ)れも、折れや曲がりに
 繋がるようなヒビもない、完璧な太刀筋を喰らわせてやれたよ、
 やっと…稜威雌に見合うだけの器になれた気がして、
 もうこの傷は消せないだろうが消せるとしても残す、
 今までは遺恨の印だったが、これは記念だ」

矢張り…八重はもう大きさからして違う、技や詞と言ったところでは
勝てる事もあるかも知れない、でも、こんな強い心は持てない、確信した。
この人は自分の全てを祓いに掛けて生きている。

「お婆さんは…何て言ってました?」

「酔狂だってさw」

嵯峨丸はしかし頭を下げ

「八重様の選んだ道、確かに見させて戴き、この目に焼き付けました」

「…そんな偉い物じゃないよ、お前はここまでに為る事はない
 お前の守るべきは私とは違うんだ」

「いえ、守る物の違いはあれど、その姿勢はきっと僕の支えになります」

「…うん、そう言ってくれると、半ば空っぽで生きて来たこの何年かも報われるな
 さ、私と違ってお前は長湯に向かないようだから、
 大丸にちゃんと自分の事を伝えにゆきな…あんまりここに粘られると、
 流石に一筋をなるべく貫いた私でもぐらぐらしそうだ」

え…? と思いつつ、そうか自分は何もかも女になってしまった。
見た目とかではない、生き物としての何かが八重をかき立ててしまう
そういう事なのだ。

「はい、あの…突然の訪問に色々と…有り難う御座在りました!」

「次に必要になったときには、必ず呼んでくれ、力になる」

嵯峨丸は湯船から上がり平伏し礼をして祓いで体を乾かしつつ急いで服を着て
また出口で改めて礼をして去って行った。

八重は湯に浸かりながら苦笑して

「…何なんだろうな、私は…w 嵯峨丸が女だとなった途端だもんな…w」



そこからふた月ほど、京から東と北全般を正式に持ち場とされて方々の手助けや
一段祓いの格を上げさせる手伝い、阿拝やその血を分けた子の様子、
川向こうの祓いの様子、武蔵国の街道筋に店を構えた姐さんの様子、
言伝などが必要なら伝令からお使いまで、出来る事はなんでもやった。
勿論生死を賭けた単独での祓いも。

頻繁に往来する八重の通り道で温泉の湧き出でている近くに建てた仮住まいで
八重が寝ているときだった。

「…なんだ、婆さん」

「矢張りアンタには迂闊に近寄れないね、まぁ当然か」

八重はしかし相手が梅だとなると結構油断して物凄く眠そうに起き上がりつつ

「そんな事言いに来た訳じゃあないんだろ、どうした?」

「アタシはあの二人の受け持ちから外されたよ」

「…そうか」

少し間が開いて、梅がやや呆れて

「なぜとか聞かないのかい」

「私には鍵が足りない、何を思えばいいのかすらも判らないよ」

「…確かに、そうだね、こっちの事情が濃すぎる」

「何があった」

「魔王はもうかつての誓約など破棄する勢いのようだよ、もう充分力を付けたと」

「…ふぅん、それは何処まで婆さんとしては真だと思う?」

「まぁ言うだけはあるか、と言うほどには…」

「…あ、それで鍵を手にした、若しかしてあの二人を全力で潰す気か」

「嵯峨丸が身ごもったよ、勿論大丸の子をね」

二人ではない、三人…そして未来…!
八重の表情が引き締まり、梅を見据える。

「そんな掟破りは許されるのか」

「許すも何も無いだろうね、勝った方が歴史を紡げる…そういう事のようだよ」

「…しかしそうなると…向こうもまだ手は出せないだろう…
 子が順調に生まれるかどうかなどひと月ふた月では判らない、今の状態で
 手を出せば流石の神様たちも黙っちゃ居ないだろうさ…
 托した未来が本当に未来を紡げるかどうか…
 生まれてしまえば両親とも祓いだ、その子に力があろうとなかろうと
 乳飲み子の内に死ぬ事もないだろう…
 仕掛けるのは子が生まれてくるその時だろうな、
 恐らく神が出来る事は精々場所をなんとなく守る程度、先に介入したのは神の方だ、
 生まれる事が確実となったその時には魔王側の方も介入出来ると踏む」

「アタシも外されたからにはおおっぴらに二人の加勢に付く気ではあるがね
 ただ恐らく嵯峨丸の実家で養生し産む事になるだろうから…」

「四條院は天野と違って神社の形式を取っている事も多い、
 貴女は周りから魔の侵入を防いで回る、という形にしかならないな、
 そして…祓い人を集結させるわけにも行かないんだ、
 各地で悪霊以上の奴らに蜂起されるともっと不味い事になる」

「だろうね、魔王が単身で襲いかかってくるはずはない、またはその全てを
 嵯峨丸と大丸に集中させるはずもない」

「…婆さん、キミメ様に全国の祓いの統括と決行の日にはそれぞれの土地を守り
 キミメ様にはそちらの手助けに回って欲しいと伝えてくれ」

「ああ…お待ち、なんでアタシだよ?」

「貴女は恐らくキミメ様に直接仕えた事のある祓い人だ、
 貴女の言う事ならキミメ様も聞くだろう」

梅は深くため息をつき

「まぁ尻尾の先は見せちまってたから考えが及ぶのは仕方ないか
 判ったよ…こんな姿、見せられた物じゃあないんだが、
 アタシはあの子達が気に入っちまった、今更恥も外聞もないね」

「頼む、何しろ私は会った事も直接指示を貰った事もないんだ」

「アンタほどの祓い人…だからこそ細かい事を言わず任せていたか…」

「そこは判らないよ、余裕があったら聞いて置いてくれ」

「あったらね」

「頼む、話は良く判った、それとなく探りを入れてくるような奴は始末するよ」

「昼間の方は頼む、アタシは夜の方をやるよ」

「そこまで思いっきり肩入れしていいのか? 色々不味くないか?」

「アタシの命の切れ端は魔王が握っている、といって魔王だけで好き勝手
 出来る物でもないんだよ、魔王がアタシの命の切れ端から手を離した瞬間、
 アタシは魔から解放される事にもなる」

「なるほどね…しかもアンタは手練れだし向こうも強い魔を矢継ぎ早に送りつけるほどには
 上の方の数も早々多くはないって事でいいかな」

「ただ、中程から下になるとウンザリなんて言葉では済まないほど数は居るよ」

「向こうも消耗は抑えたいはず、矢張り決戦は嵯峨丸に陣痛が来たときだ」

「それとなく周辺を守りながら、時を待つんだね、多分来年の桜の盛りの頃になるよ」

「桜の中か、嵯峨丸の実家の周り、桜が沢山あるんだ、綺麗で見事だろうな
 戦いの場としてこれほど申し分のない時と場所もない」

「…八重、アンタ…」

「私は勝つつもりだよ」

「…そうか、済まないね、結果的に巻き込むような形になっちまって」

「婆さんが謝る事じゃない、巡り合わせの妙って奴さ、そしてそれは神様にだって
 完全に操れる物じゃあない、だからあの二人は基の定めに潰される事もなく
 晴れて妻夫(めおと)にも成れる、私もそうさ、魔でも神様でも
 操りきれる物じゃあないから私は選ぶ事が出来る、婆さんもそうだろ?」

「…ん、そうだね」

「変えられない定めがあるとしたら「次」の機会そのものだろうさ
 そしてそれは多分、誰にも操る事が出来ない巡り合わせの妙なんだろう」

梅は俯きフッと笑って

「アンタに言ってもそんな事は判っているだろうけどね」

「なんだい」

「後悔だけはするんじゃあないよ」

「当たり前だろ」

二人の目が合う、力強い目の光りで視線で頷き合い、

「さて、私は眠りの続きだ、お休み」

言うだけ言って、聞くだけ聞いて、満足するだけ満足したら八重はまた寝てしまった。
梅は半ば呆れ返りつつも、借り暮らしの家を出て探りを入れてきた下級の魔を始末しつつ
闇へと消え去っていった。



第十一幕  閉


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